志賀直哉と尾道遊廓
『別冊関学文藝』56号に私は「志賀直哉の影を追いかけて、尾道新地、道後松ヶ枝町、 祇園新橋通」と長いタイトルのついたエッセイを書いた。大正元年に、30歳の志賀直哉が尾道 に滞在した期間は正味で3ヶ月半余り。滞在中に遊んだ新地の貸座敷はどの家…
わくわく亭はまるで失踪者の調査をする私立探偵のように、古地図や古写真を並べては大正時代の 尾道における志賀直哉の足跡を追いかけている。 大正2年4月に尾道を見捨てて、東京へ戻り、父親と和解したのだから、このシリーズも終了 するのだが、最後にな…
前回のシリーズ(10)で終了したのであるが、ブログ友達から教示があって、大正期の尾道駅の 写真がみつかった。志賀直哉が大正2年4月に尾道から帰京するために汽車に乗ったのは、この 写真に写った停車場からだった。 (10)に掲載した写真の尾道駅は…
「志賀直哉と尾道遊廓」シリーズは(9)で終了するつもりでいたところ、また一枚面白い 写真があったので、これについて話をする。 本シリーズ(6)のつづきと思ってもらいたい。 写真は大正13年以前に撮られたもので、その根拠は、その年に焼失した芝居…
志賀直哉の尾道時代のことを調べてみながら、文学とは距離のある俗談に終始したのだが、 俗談ついでに、尾道遊廓の揚げ代について書いておこう。 『暗夜行路』には、東京、京都、尾道、道後など各地の華街で遊蕩する様子が描かれている。 ときどき金銭のこと…
大正4年4月、中国実業遊覧案内社が発刊した『尾道案内』(吉田松太郎編集)という本がある。 その中に、当時の久保遊廓と、新地の芸者券番(検番)のことが出ている。 大正4年発刊とすれば、大正元年11月から翌2年4月までの尾道滞在時代に志賀直哉が …
ここで大正元年ころのお金と物価の話をしてみたい。 志賀直哉が尾道にやってきた大正元年の尾道の物価を考えてみるのも面白い。 『暗夜行路』やその草稿に書かれている物価や料金を、現代のそれと比較してみたいと思う。 もちろん志賀直哉の懐具合もあわせて…
大正時代の地図を見ながら、前回新地の劇場「偕楽座」と「竹村家」に触れたので、 ついでに『暗夜行路』に、この2つの場所が出ているのを思いだしてもらうとしよう。 地図をもっと拡大する。 中央に新開の仲之町がある。その右下の方角に「偕楽座」がある。…
志賀直哉の『暗夜行路』については、「暗夜行路草稿」が岩波の全集に収められており、前回引用した 本多秋五の『志賀直哉』(岩波新書)にも、その「草稿」から頻繁に引用されているのは、「草稿」は ほとんど志賀直哉の日記に等しい内容を含んでいるからで…
近代日本の作家たちの中で、志賀直哉をはじめとする白樺派の芸術家たちは、生活するために 働く必要もなければ、働くこともなく、芸術活動に専念できた経済的に恵まれた人たちだった。 志賀直哉の祖父、父は足尾銅山、総武鉄道、帝国生命などに関係した財界…
志賀直哉が千光寺から市内をはじめて眺めた時の様子が、小説『暗夜行路』に書かれている。 鐘楼の所からは殆ど完全に市全体が眺められた。山と海とに挟めれた市は其細い幅とは不釣合に 東西に延びて居た。家並もぎっしりつまって、直ぐ下にはづんぐりとした…
志賀直哉が尾道に寄寓した時期が大正元年(1912)11月10日から、翌2年(1913)の 四月上旬までとすると、まずその頃の尾道の地図を見てみたい。 この地図は大正13年8月発行のものだから、志賀直哉が滞在中に見た尾道の町とほとんど変わって …
尾道時代の志賀直哉が、東京に住む友人の誰かに書き送った手紙の中に、千光寺山の中腹で、 宝土寺の上にある借家で暮らしているが、話し相手もなく、毎日退屈で、日が暮れるのを待って 下の色里に遊びに行くことくらいしか、することがない…といったことを書…