志賀直哉と尾道遊廓(3)

志賀直哉が千光寺から市内をはじめて眺めた時の様子が、小説『暗夜行路』に書かれている。


鐘楼の所からは殆ど完全に市全体が眺められた。山と海とに挟めれた市は其細い幅とは不釣合に

東西に延びて居た。家並もぎっしりつまって、直ぐ下にはづんぐりとした烟突が澤山立ってゐる。

酢を作る家だ。


イメージ 1


写真は大正初期のもので、千光寺から眺めた風景。左の方角に黒い烟突が立つのが見える。


もう一枚、同じ頃の写真で浄土寺の参道から眺めたものがある。

イメージ 2


2本の烟突が見えるが、手前のものは醤油醸造所の烟突。2本の烟突の中間あたりに背の高い

大屋根が写っている。それは偕楽座という劇場である。(のちに映画館となり、現在は尾道市教育会館)

『暗夜行路』の主人公は後日ここで芝居を見てる。

志賀直哉が千光寺の鐘楼付近から眺めた烟突の中に、これらの烟突が入っていたはずである。

つぎに志賀直哉は。「不潔なじめじめした路次から往来へ出る」

つまり、本通りのことである。

さきほど眺め下ろした、東の方角へ、本通りを歩いている。


道幅は狭かったが、店々には割に大きな家が多く、一體に充実して(略)


志賀直哉が歩いた大正初期の尾道本通りは、次の写真のような景色だった。

イメージ 3


志賀直哉が生活していた東京と比較すれば、道幅は狭くて、路次はじめじめと不潔に見えたことだろう。

さらに本通りを進んで、次のように書いている。


彼は又町特有な何か臭ひがあると思った。酢の臭ひだ。最初それと気附かなかったが、「酢」と

看板を出した前へ来ると一瞬これが烈しく鼻をつくので気附いた。路次の不潔な事も特色の一つ

だった。


尾道では江戸時代から酢が作られており、なかでも灰屋次郎右衛門は、豪商灰屋一族の本家で

最有力の造酢家だった。現在も尾道造酢(株)として存続しており、久保一丁目に店舗がある。

しかし、大正初期には、本通りから薬師堂小路へ下る口の左側にあった。

志賀直哉が酢の臭いに立ち止まり、看板に気付いたというのは、この写真の店だった。

たしかに、「路次の不潔な事も特色」といわれても仕方ないかな。

イメージ 4