大田南畝(蜀山人)

南伸坊の似顔絵

今朝、新聞を開いていると、時代小説文庫の広告に、わくわく亭のよく知っている顔が見えた。 「あの人も、読んでるらしい」のキャッチコピーに添えて南伸坊さんが描いた人物像があり、 「新宿の大田さん」と、その人の名が書いてある。 大田南畝の似顔絵であ…

NPO法人「江戸連」

日本橋小舟町に事務所を置く「江戸連」というNPO法人がある。 名前の通り江戸文化を愛する人たちが毎月集まっては江戸について研究や勉強をするため、 講師を招いて話を聞いたり、江戸の旧跡を訪ねたり、旅行をしたりするグループである。 昨日の21日、…

長崎の南畝

“長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”というブログがあって、その著者みさき道人さんが 長崎滞在時の大田南畝の足跡を調べておいでになるのを知って、さきごろ旧著の 『崎陽忘じがたくー長崎の大田南畝』を贈呈した。 すると、その本を次のように紹介して頂いた。…

萩寺

庭の萩を写真にして、トップページへ載せてみた。 近頃クセになって駄句をページの飾りにしたりしている。 今日も、下の句を貼りつけた。 「萩寺や南畝の恋の記憶かな」 「南畝の恋」というのはわくわく亭の歴史小説『南畝の恋』のタイトルでもある。 その小…

お知らせ!!

わくわく亭雑記の「大田南畝」コーナーに連載していた『大田南畝という快楽』が9回で、ついに完結しました。わくわく亭が好きだという江戸時代の狂歌師って、どんなひとだったのかな、とちょっとだけ、ついでにのぞいてみてください。結構いけてるとおもう…

大田南畝という快楽(9)

―雪もこんこん花もさけさけ― 長崎から江戸にもどって、それまでやもめだった南畝は、門下の島田順蔵の娘お香を妾にむかえました。還暦をまえにして精力的な南畝です。そしてお香との間に娘をもうけています。 60歳の年の12月から翌年の4月まで、玉川流…

大田南畝という快楽(8)

―《蜀山人》寛政期からの南畝― 寛政元年(1789)には、南畝は41です。 平均寿命が45歳くらいの時代ですから、普通の人であれば、41歳は彼の人生の終末です。 ところが、南畝という人がもっている精神の柔軟さは、挫折することなく、つぎの時代を生…

大田南畝という快楽(7)

―南畝の危機― 狂歌人気の絶頂期にいた天明7年、すなわちお賤(しず)を身請けした翌年、39歳の南畝はとつぜん狂歌界と絶縁します。 それは幕府内の政変が大きく関係しています。 積極経済の政策をすすめていた老中田沼意次が失脚したのです。かわって、松…

大田南畝という快楽(6)

―愛妾おしず― そうした狂歌集におさめられた歌とは、おもむきの異なった恋の歌がいくつかあります。 真情が吐露されたシリアスな歌です。 をやまんとすれども雨のあししげく 又もふみこむ恋のぬかるみ 小やみになったかな、とみえた雨脚はまたもつよい降りと…

大田南畝という快楽(5)

―《四方赤良》天明期の南畝― 狂歌の作者たちはみんな面白い名前をつけました。狂歌ばかりか名前まで滑稽でパロディー化したのです。滑稽な狂歌名をもつことで、身分制度にしばられた現実の自分から抜け出して、笑いにみちた虚構の世界で自由を獲得しようとし…

大田南畝という快楽(4)

―山手馬鹿人― 南畝は17歳で御徒となりました。20歳には大田家の家督を継ぎましたから、一家の生活の苦労を彼が担うことになりました。さぞや、うんざりしたことでしょう。 彼は御徒の職にあきたらず、学問で身を立てるつもりでいたでしょうが、身分制の…

大田南畝という快楽(3)

―《寝惚先生》安永期の南畝― 大田南畝は、いまからおよそ250年前の1749年、江戸の牛込仲御徒町に生まれました。今日の住所表記では、新宿区中町です。JR市ヶ谷駅から神楽坂を上がったあたりになりますね。 亡くなったのは1823年で、約180年…

大田南畝という快楽(2)

―伝説の中の蜀山人― すこし古いテレビ時代劇で恐縮ですが、M電器が提供していた「大江戸を駈ける 怒れ!求馬」という番組がありました。 南町奉行所の年若い同心が主人公。彼の祖父が町奉行で、奉行の親友が大田蜀山人、という設定。 今は亡き植木等さんが…

大田南畝という快楽(1)

大田南畝(おおたなんぽ)というユニークな江戸の詩人の生き方、仕事ぶりをながめながら、江戸文化の成熟さを味わいたいと思って、この『大田南畝という快楽』というタイトルをつけました。 南畝の代表芸はもちろん江戸狂歌です。狂歌がどんなに面白い文芸ジ…

南畝びいき

大田南畝(おおたなんぽ)のひいきです。 昼はそつのない幕府勘定所のお役人、夜はやくざな狂歌師、と称されている南畝、狂歌名は蜀山人。 これまで、かれについて3冊の本を書きました。 『南畝の恋ー享和三年江戸のあけくれ』1999年6月刊、澪標(みお…