志賀直哉と尾道遊廓(12)

わくわく亭はまるで失踪者の調査をする私立探偵のように、古地図や古写真を並べては大正時代の

尾道における志賀直哉の足跡を追いかけている。

大正2年4月に尾道を見捨てて、東京へ戻り、父親と和解したのだから、このシリーズも終了

するのだが、最後になって、大正元年11月に尾道に到着して最初に泊まった宿屋の話に逆戻りした。

それは駅前の「鶴水館」であり、そこは現在「シネマ尾道」(旧尾道駅前松竹)がある場所である

ことまでは前回述べた。

面倒ながら平櫛氏手製の地図を拡大して、再度掲載する。

イメージ 1


駅舎から出ると、すぐ左手に「浜吉旅館」があり、道があって、「加茂旅館」があり、東御所町の

通りがあって、角から三軒目が「鶴水館」である。これを覚えておいて、つぎの写真(大正末年)

を見る。志賀直哉が去って13年後、まさに平櫛氏の手製地図に描かれた時代の駅前である。

イメージ 2


左端にあるのが「浜吉旅館」だろう。つぎの広告板がべたべた貼ってあるのが「加茂旅館」だろう。

住友銀行尾道支店とか尾道造酢、下駄製造の広告看板である。その下では、たばこなどを売っている

店があるらしく人影がある。荷車(荷馬車か?)らしいのが見える道が東御所町の通り。

その右側は日陰になっていてよく分からないのだが、その三軒目に志賀直哉が泊まった「鶴水館」が

あったはず。

道は舗装されていない。ところどころくぼんだところに水たまりでもあるのか黒く見える。

人影も家も、お世辞にもきれいとは言えない。

志賀直哉が東京からやってきて最初に見たであろう尾道駅前は、こんな景色だったのだ。


この写真から10年後に、同じ場所を写した別の写真がある。昭和10年の尾道駅前である。

イメージ 3


見違えるくらいきれいに変貌している。昭和3年の駅舎改築にあわせて、駅前が整備されたと

見える。ただし道は舗装されていない。土ぼこりがするため、散水車が出て、水を撒いていたらしい。

左のあるのは「浜吉旅館」だろう。真ん中にある店がきれいになって、ユニオンビール

とカクホシ酢の看板を掛けている。「カクホシ酢」はシリーズ(3)で紹介した灰屋次郎右衛門

の後裔である尾道造酢のブランドで、この当時尾道名物のひとつだった。

つぎが東御所町の通り。角の二階家が、平櫛地図にある「毎日屋」という商店で、つぎの屋根の

低い二階家が「浜高雑貨店」だろう。そして、電信柱の先に見えている屋根の高い家が、「鶴水館」

だろう。どうにか志賀直哉尾道で最初に泊まった宿屋の姿をとらえたらしい。


志賀直哉と『暗夜行路』、そして彼が数ヶ月滞在した大正期の尾道。この三点セットに興味の

ある人には、ちょっと面白いブログになったのではないだろうか、と自画自賛しつつ、この

シリーズを終わることにする。