志賀直哉と尾道遊廓(5)

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志賀直哉の『暗夜行路』については、「暗夜行路草稿」が岩波の全集に収められており、前回引用した

本多秋五の『志賀直哉』(岩波新書)にも、その「草稿」から頻繁に引用されているのは、「草稿」は

ほとんど志賀直哉の日記に等しい内容を含んでいるからである。

いまここに、尾道市立大学の寺杣雅人教授を中心にして「暗夜行路草稿4」前半部を翻字(手書き原稿を

解読して活字にする作業)した労作を発表した『尾道文学談話会会報』第2号(2011年12月発行)

がある。

これによって、志賀直哉大正元年11月に尾道に到着して、駅前の旅館に一泊するが、翌日千光寺や

市内散策をして「酢」の看板を見たりした後で、新開、新地を見物して、夜ははやくも「裏新地」で

放蕩して、その翌早朝に四国行きの連絡船に乗っていることが知れるのである。

それを整理して,志賀直哉の行動を詳しく読み取って行くとしよう。


志賀直哉尾道遊廓』(3)において、小説『暗夜行路』に描かれた主人公の行動を辿って、

千光寺から本通り、尾道造酢の店舗前まで行った。

小説では、それから骨董屋、古道具屋、八百屋、荒物屋、時計屋、印判屋をのぞくと、どこでも

瓢箪をぶらさげているのを珍しい、と書く。

そして、このようにつづく。


其晩彼は早く寝た。そして翌朝未明に起きると、未だ電燈のついてゐる掃いたやうな往来を番頭に

送られて近い船つき場へ行った。霜が下りて寒い朝だった。



ここを「草稿4」で読むと、つぎのように大きく異なる。

彼は千光寺へ上がる途中で、寶土寺上にある三軒長屋の貸家札をみつけて、賃料を聞いたりする。

これが気に入る。千光寺から下りて市中を歩く。床屋に入ると、バリカンで丸刈りにしてもらう。

昼時になって腹が空いてくる。

ぶらぶら東へと歩くと、


 薄暗い家に御料理という行燈を出している家があった。(略)御料理といふので若しかしたら

料理屋かなと思った。歩いてゐると所々に左ういふ家がある。矢張り女郎屋なのだ。

 海岸の方に出て見た。海に面した所に大きな料理屋があって、此所では盛んに三味線太鼓の

音がしてゐた。小さな橋を渡ると、矢張り海へ面した川の口にアサヒビールの看板を出した

西洋料理屋があった。そこで昼食をした。細々したことを書くとキリがないが、ライスカレーを

いふと、それに生玉子を一つつけて来たりした。


 それから途で、周旋業の看板を見て、女中の雇い人のことで入ってみたり、瓦斯屋でガスストーブ

の賃借りについて聞いたり、軽石と絵はがきを買ってくる。

 つぎに、こういう記述がある。



○道後へ行くことにする。

○藝舎が来る。夜、女郎屋に行く。一人々々ヒキツケに来る。裏新地の家へ又上る。

 何とかいふのに豆奴、駒栄来る。二時間程でかへる。

 帰って青木への通信を書く。

 十二日翌日、四時半頃起きる。番頭に送られて、五時十五分宿を出る。下りの列車がついて

人通り一時繁い寒い中を外套を着て、直ぐの船つきに行く。


藝舎が来る、とあるのは、駅前の旅館に夕食時にでも、藝舎を呼んだということだろう。

それから、昼間の散策で下検分しておいた新開と新地の遊廓へ出かけたと見える。

新開と新地の区別については、また大正時代の地図で説明しよう。

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地図の中央に、カラーペンでアクセントをつけた「仲之町」の文字が見える。

東京吉原の仲之町にならってつけた名前だが、その道の南北が「新開」(しんがい)といって、

江戸後期からつづく遊里である。

新開がつくられて後に、南の海側が埋め立てられて造成された地区であるが、これを「新地」と

呼んだ。新開の遊里は新地にも広がったわけで、遊廓と料理屋、お茶屋、飲食店などが密集する

歓楽街になった。

このシリーズ(3)で、志賀直哉が臭いで気付いた酢の店について書いたが、その店があった

薬師堂小路は、地図の左の端近くに見えている「薬師堂町」に沿う南へ下る道である。

かりに、志賀がそこを歩いたとすると、最初の横道(米場町)を左に進むと、新地へと行き着く。

海岸に出ると大きな料理屋ある、と書いているのは、現在も「魚信」や「竹村家」があるあたりの

ことである。

ライスカレーを食べたという西洋料理店とは、どこのことか。(尾道大学の寺杣教授は竹村屋

のこととしている)

河口に面していて、小さな橋を渡る、いう。川は防地川である。

新地にあった橋であるが、劇場の偕楽座前にあった「新橋」か、海に近い「渡瀬橋」のいずれかの

ことであろう。

さて、志賀直哉は「夜、女郎屋に行く。一人々々ヒキツケに来る。裏新地の家へ又上る。 何とか

いふのに豆奴、駒栄来る。二時間程でかへる」と草稿に書いた。

これをいかに解釈するか。

まず、昼間下見しておいた女郎屋のどこかへ上がったとみえる。ヒキツケに来る、というのは

常連で敵娼(あいかた)の決まっている客ではなくて、ご新規さんの場合、最初に「引付部屋」

に通して、遊女をひとりずつ呼んで紹介し、客の好みの子を指名させ、料金を決める習わしが

あった。志賀直哉は女郎屋で「ヒキツケ」をしておいて、裏新地のお茶屋に上がって

女を待っていると、何とかいう子と、豆奴と駒栄と3人がやってきた。

2時間の遊び時間だったというわけである。

このシリーズ(4)で引用した『暗夜行路』に描かれた「丸々と肥った可愛い娘で、娘は

愛されてゐるという自信から、よく偽りの悲しげな顔をして、一圓、二圓の金を彼から巻き上げた」

という娼婦は、その3人のうちの一人なのだろうか。

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