志賀直哉と尾道遊廓(1)

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尾道時代の志賀直哉が、東京に住む友人の誰かに書き送った手紙の中に、千光寺山の中腹で、

宝土寺の上にある借家で暮らしているが、話し相手もなく、毎日退屈で、日が暮れるのを待って

下の色里に遊びに行くことくらいしか、することがない…といったことを書いていた

のを読んだ記憶がある。

さて、誰に宛てて書かれた手紙だったろうか。正確な手紙の文章を確認したいと、中央区

京橋図書館へ行き、岩波版の志賀直哉全集から、書簡集をしらべてみた。

尾道に滞在したのは大正元年(1912)11月10日から、翌二年(1913)の四月上旬

までの期間である。その期間内に志賀直哉が書いた書簡を読んでみるが、上記の内容のものは

見当たらない。

では、書簡ではなかったのか。志賀直哉大正元年の暮れから二年の正月にかけて、4週間

東京に戻っている。その期間に会った在京の友人に対して、尾道での生活の様子を語ったのを、

その友人が後に志賀直哉との交遊について、なにかに書いたものを、僕が読んだのかも知れない。

さて、そうなると、ちょっと捜索範囲が広くて、簡単ではない。手許にある本を何冊か覗いて

みたりしたが、雑誌だったかも、ネットだったかも、となると、お手上げである。

その方の調査は一先ず棚上げとして、本題に戻る。


書こうとしているのは、志賀直哉尾道にやってきた当時の尾道遊廓のことなのだ。

志賀直哉は、どんな様子の尾道の色里を見たのか、それを追跡してみたいのである。

その前に、順序をおって、大正元年志賀直哉が汽車から下りたっと時の、尾道の景色を

見ることにしよう。撮影されたのは大正末のころの写真である。

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