志賀直哉と尾道遊廓(10)
写真があったので、これについて話をする。
本シリーズ(6)のつづきと思ってもらいたい。
写真は大正13年以前に撮られたもので、その根拠は、その年に焼失した芝居小屋「偕楽座」
が、まだ焼失以前の姿で写っているからである。写真右にある帆船の向こうに見えている和風の
大屋根が「偕楽座」なのだ。
志賀直哉が『暗夜行路』で、つぎのように書いた場面がある。
彼は矢張り何となく家へ落ちついてゐられない気持ちになった。丁度新地の芝居小屋に 大阪役者が来てゐる時で、彼は隣りの老人夫婦を誘って其処へ行って見ようと思った。
老人夫婦は都合が悪く、主人公(=志賀直哉)は一人で出かける。
その芝居小屋「偕楽座」が写真に見えているのである。偕楽座周辺の屋根は新地である。
つぎに、
そして三幕程見て其処を出た。彼はぶらぶらと一人海添の往来を帰って来た。 (略) 少し腹が空いて来た。彼は時々行く西洋料理屋まで引きかへさうかと思ったが、 新地を又通って、行く事がいやに思へた。そして暗い海添ひの道を一寸後もどりして 蠣船(かきぶね)料理へ行った。
「時々行く西洋料理屋」とは尾道市立大学の寺杣教授説では「竹村家」であるが、写真右端の海岸
沿いに立つ二階屋がそれである。その左には防地川の河口が見えている。
写真左端に、薬師堂浜の雁木(がんぎ)に繫留された「牡蠣船」が写っているのだが、
不鮮明なので、写真をもう一枚。
実は、上の写真は拡大する都合で、左半分をカットしてあるが、そのカットした部分を
つぎに掲げる。
右奥の大屋根は浄泉寺本堂。牡蠣船の左に大きな土蔵造りの倉庫の屋根が見えている。
その風景を『暗夜行路』はつぎのように描く。
(牡蠣船の中の)彼は低い窓障子を開けて、其処から外の景色を眺めた。 石垣の上が暗い往来で、向側に五六軒破風(はふう)を並べて、倉庫がある。 新地から宿屋へ呼ばれて行く藝舎だらう、三四臺続いた俥の上で互に浮かれた 高調子で、何か云ひ合ひながら通って行くのが其暗い中に見られた。
このあと小説では、主人公謙作は中耳炎になりかけ、尾道に専門医がいないのを
理由にして、東京へ帰る決断をする。
隣の老夫婦が駅まで見送ってくれた。
さて、『暗夜行路』における尾道ラストシーンである。
尾道に未練はなくて、東京が恋しくてならないのである。
爺さん、婆さんは重い口で切りに別れを惜んだ。彼もこの人達と別れる事は惜しまれた。 然し此尾の道を見捨てて行く事は何となく嬉しかった。それはいい土地だった。が、 来てからの總てが苦みだった彼には其苦しい思ひ出は、どうしても此土地と一緒にならずには 居なかった。彼は一刻も早く此地を去りたかった。
なんとも、つれない志賀直哉さんではないか。
さいごに、大正2年4月頃の尾道駅の写真があれば、申し分ないのだが、
それがみつからない。
かわりに昭和初期(3年頃か)の写真を載せる。