志賀直哉と尾道遊廓(9)
俗談ついでに、尾道遊廓の揚げ代について書いておこう。
『暗夜行路』には、東京、京都、尾道、道後など各地の華街で遊蕩する様子が描かれている。
ときどき金銭のことも書かれているが、あからさまに揚げ代についての言及はない。
それでも、わくわく亭のような俗人は、いったいいくらほど志賀直哉は払ったのだろうか、と
気になってしまう。
『暗夜行路』に描かれた尾道の娼妓は、「丸々と肥った可愛い娘で、娘は愛されてゐるという
自信から、よく偽りの悲しげな顔をして、一圓、二圓の金を彼から巻き上げた」とある部分を、
本シリーズ(4)で引用した。
1円、2円とは、シリーズ(7)で見たように現代の物価に直すと5千円、1万円に相当する。
それは、どういう料金のことだったのか。
前回(8)で引用した忍甲一著『近代尾道遊廓志稿』には、昭和4~5年の揚げ代について、
つぎのような記述がある。
「昭和4~5年の久保遊廓では、40分=一円、引け=24時過ぎからの1泊は4~5円で
税6%」
40分を単位に「一花」1円との決まりだった。
志賀直哉が「一圓、二圓の金を」巻き上げられたのは、遊興時間を、もう40分、もう40分と
延長させられたのだろう。
それにしても、大正元年(1916)から昭和4年(1929)までには13年のひらきがある。
物価の変動を考慮すると、昭和4年に一花=1円だとして、大正元年にはもっと安かったのでは
ないか。
物価の指数で比較すると、昭和4年を100とすると、大正元年は90である。白米10キロ
の値段は昭和4年1円66銭、大正元年1円40銭なので、100に対して84である。
そのころ東京ではいくらくらいだったろう。
「大正の物価」という資料によると、大正5年当時、東京の遊女の揚げ代は3円だったという。
もちろん、遊里の場所や、遊女の格によって料金は上下したはずだが、一応の目安にはなる。
3円の揚げ代が、上記の一花40分とすると、尾道と東京とでは、3倍以上のひらきがあった
ことになる。
寶土寺の上にあった棟割り長屋の家賃が月2円であり、東京の相場の5分の1だったことを
思えば、遊興費の安さも不思議ではない。
と思われるのだ。
写真は大正ではなくて、昭和初期のものとしてある。
左端に偕楽座の屋根が見えると説明があるが、どれがそれなのか不明である。
幾度か火事で焼失し、建て替えられたもので、いつのものか明確にしない。
ただ、写真左端一帯のびっしりと屋根が密集しているあたりに尾道久保の新開と
新地の歓楽街はあった。