志賀直哉と尾道遊廓(4)

近代日本の作家たちの中で、志賀直哉をはじめとする白樺派の芸術家たちは、生活するために

働く必要もなければ、働くこともなく、芸術活動に専念できた経済的に恵まれた人たちだった。

志賀直哉の祖父、父は足尾銅山総武鉄道、帝国生命などに関係した財界の重鎮だったから、

志賀直哉は、自然主義作家たちのように、生活費のために作家活動をする必要はなく、純粋に

芸術のために小説を書いた人だった。はやい話が、お金に不自由をしない、しあわせな作家

だった。

学習院時代から、放蕩三昧というから、芸者や遊女と遊びたいだけ遊ぶことができた。

その放蕩生活の心境について、志賀は次のように語っている。(暗夜行路草稿6)


道徳から自由になりたいという望みから、それが本統の生活であると思ふ点から、女との関係

でも欲望のまゝに勝手な事をする。嘗ては下等な行ひとしてゐたやうな事を敢てする。(略)

自分は自分の欲望に従って自由に行った。(略)

総てから自由でなければならぬ。



本多秋五志賀直哉の女遊びをこう書いている。

「このころ(尾道へ行く直前)の志賀直哉は、金で自由になる女には不自由していない。

それは「常食」である。身心ともに調和し、安息をあたえ、明日への英気を養わせてくれる

女性を求めていた…」

また、友人の小林秀雄は、志賀直哉を「理知と欲情の間に分裂を知らない『古典的な人物』」と

評していたそうである。

こういう理念のもとで、放蕩していた志賀直哉が、父親と対立して家を飛び出し、尾道へやってきた

とき、年齢は30歳で、独身だった、とすれば、尾道の紅燈の巷に足繁く通わぬはずがない。


『暗夜行路』に次のようなくだりがある。


「旦那さん、銭はわしが出しますけえ、どうぞ、何処ぞへ連れて行ってつかあさい」

こんな上手な事をいふ百姓娘のプロスティチュートがあった。丸々と肥った可愛い娘で、娘は

愛されてゐるという自信から、よく偽りの悲しげな顔をして、一圓、二圓の金を彼から巻き上げた。


プロスティチュートとは娼婦の意であるが、「愛されてゐるという自信から、よく偽りの悲しげな顔を

して」云々というあたりから、彼女は小説の主人公のかなり馴染みの相手と思われる。

ある日、主人公が向島へ塩田を見に行った帰りに、その娼婦が客らしい男と歩いてくるのと出会い、

なにげなく竹藪の陰に隠れてやりすごす。


其娘だった。派手な長い袖の羽織を着て、顔を醜い程に真白く塗ってゐた。そして何か

浮れた調子で男に話しかけながら通り過ぎた。



この娼婦は、この場面にだけ描かれて、後には再登場しない。

しかし、主人公は恋人であるお栄に手紙を書き送った後で、



彼は心ではそんな状態に居ながら、一方、急に肉情的なった。お栄との結婚、此予想は、

様々な形で彼のさう云う肉情を刺激し出した。

そして実際にも彼は其間に幾度か放蕩した。


これは小説の一節であるが、志賀直哉もまた百姓娘のように垢抜けないが、丸々と

肥った可愛い娼婦と、何度となく遊んだに違いないだろう。

さて、どこで出会った娼婦だったのか。


尾道には、久保町新開に、江戸時代からつづいている遊廓があったから、そこであろうと

察しはつく。

だが、ほかに可能性はないか?


ここで、大正13年の地図をまた見てみることにする。

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地図の左端に、寶土寺(志賀直哉の借家のすぐ下にあった寺)が見えている。

それから下へと海岸まで下りてくると、「渡場」という文字が見える。点線が下へとのびるのは

渡し船向島との間を往来しているのである。

「渡場」のすぐ上に「女郎屋町」の4文字が見える。

ここは江戸時代中期まで、「遊び崎」とよばれる遊廓があった場所だ。

新開に遊廓がつくられて、ここから移転したことになっているが、大正時代にまだ

その名残の「女郎屋町」の町名が残っていたとは、面白い。

単に名前だけではなく、娼婦を置いた飲食店や宿屋などがあったかもしれない。

志賀直哉が小説に書いた娼婦がここにいて、渡場から客と向島に遊びに行ったことも

ないとは言えまい。

しかし、結論から言って、ここではない。志賀直哉が馴染んだのは、やはり新開遊廓に

違いないのである。その理由は、これから説明しよう。