志賀直哉と尾道遊廓(6)

大正時代の地図を見ながら、前回新地の劇場「偕楽座」と「竹村家」に触れたので、

ついでに『暗夜行路』に、この2つの場所が出ているのを思いだしてもらうとしよう。

地図をもっと拡大する。

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中央に新開の仲之町がある。その右下の方角に「偕楽座」がある。カラーペンで○で囲っておいた。

『暗夜行路』の中に、ここへ芝居を観に行く場面がある。

寶土寺上にある三軒長屋の一軒を借りて住むことにした主人公謙作が、二回目の四国旅行から

尾道へ戻ったある日、


何となく家へ落ちついてゐられない気持になった。丁度新地の芝居小屋に大阪役者が来てゐる

時で、彼は隣りの老人夫婦を誘って其処へ行って見ようと思った。


老人夫婦には他に都合があって、結局彼一人ででかける。その芝居小屋が「偕楽座」である。

当時、上方から歌舞伎芝居などもやってきて興行していた。

芝居のないときには映画の上映もした。戦後、わたしが少年の頃には、尾道セントラル劇場

という名で映画館になっていたが、その後、廃業して、現在その場所には尾道教育会館

が立っている。

このシリーズ(3)では、遠い位置から撮った写真に大正13年以前の偕楽座の大屋根が写っている

ことを紹介したが、偕楽座はその年に焼失した。すぐに再建されたが、新しい偕楽座は洋館で

志賀直哉が芝居見物に出かけたときの和風建築だった偕楽座の面影はない。

ただ参考のために、大正14年に建てられた偕楽座の写真を見てもらう。

偕楽座の前を流れているのは防地川である。(いまは暗渠となっている)

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芝居を3幕観て、小屋を抜け出した謙作は、防地川沿いに海岸へ出て、西の薬師堂浜へ向かい

「牡蠣船」で食事をする。牡蠣をたべたところ、口のなかに、小さな真珠が残る。

彼はその真珠を東京の咲子へ送るのだった。

地図の防地川は、いまは暗渠になってしまい、新橋も、渡瀬橋も無いが、河口には

薬師堂浜から移転してきた「牡蠣船」がある。

わたしが子どものころは、船は大きな木造船で、それをロープで岸に繋いであった。

いまの「牡蠣船」は船とは名ばかりで、コンクリートの建物である。



ここで、もう一度、上掲した地図を見ていただきたい。

新開仲之町の右側に八坂神社がある。

反対に「港町」という町名のところに「玉栄館」の名前がある。

玉栄館は演芸場で、のちに映画館になる。このあたりは戦後千日前と呼ばれて、5~6軒の

映画館が出来て、にぎわった場所である。

つまり、東西を八坂神社と映画街にはさまれて新開の遊廓はあったことになる。

2012年5月に、この場所に行ってみた。

そのとき撮った八坂神社の写真と、かつての千日前の写真である。

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八坂神社は、新開の入り口だった。見返り柳のかわりに、かんざしの形をした灯籠がある。

芝居小屋でお茶子をしていた娘が、浜問屋の若旦那に失恋して死に、幽霊となって

「約束のかんざしをください」と迷い出たと由来が書いてある。

かんざい灯籠には「文化十年六月吉日」と寄進日が彫られている。新開の女郎屋やお茶屋

商売繁盛を祈願して寄進したものだろう。

これがかつての映画街千日前のいまの姿である。

酒場と飲食店、キャバクラなどの、どこにでもある特色のない歓楽街だ。

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