志賀直哉と尾道遊廓(8)

大正4年4月、中国実業遊覧案内社が発刊した『尾道案内』(吉田松太郎編集)という本がある。

その中に、当時の久保遊廓と、新地の芸者券番(検番)のことが出ている。

大正4年発刊とすれば、大正元年11月から翌2年4月までの尾道滞在時代に志賀直哉

遊んだ同時代の尾道遊廓だと考えて差し支えあるまい。


遊廓、久保町新開にあり、宝来舎、強俊舎の2券場に分かたれ、宝来舎は置屋11軒、

お茶屋10軒、芸娼妓37名。強俊舎は置屋25軒、お茶屋9軒、娼妓61名有せり。



女郎屋は2つの券番に所属しており、2つを合わせて、その数は36軒、娼妓の数は98名だった。

券番(検番)というのは、組合事務所のようなもので、娼妓、芸妓の取り次ぎをしたり、

彼女たちへの遊興費の清算を行っていた。


尾道案内』の筆者は、

「今その沿革を考うるに、尾道の遊女街は…」とはじめて、古くは幸ノ前町、柳小路、

渡場(本シリーズ(4)で書いた女郎屋町のこと)などに移り、宝暦5年に新開に移り、

漸次新地へ拡張された、と歴史を述べる。

江戸時代には日本遊女番付で、京の祇園新地と比較されるほどに繁栄を極め、

「傾城(けいせい)の美に富み居たることを知るに足るべく…」と自画自賛する。

明治維新の際に、遊女解放の沙汰があったとき、遊女はすべて帰郷したので、

尾道花柳界は、一時退廃の悲境に陥りたるも、漸次また復活し、今や…」

とかなりの字数を費やしてから、『尾道案内』の著者は、尾道芸妓の賞賛へとつづく。


芸妓は新地を以て最(さい)とす。


「最とす」とは大正風な物言いで、おもしろい。



いまや芸妓の置屋10戸、芸妓35名を有し、偕楽舎券番を置き、歌舞、風俗常に東西の

粋(すい)を抜き、清洒濃艶、遊客の終に流連荒亡するもの少なからず。


とまで言う。

おや、偕楽舎という芸者の券番があったのか。

おそらく、これまで幾度も出てきた、新地の芝居小屋「偕楽座」が芸者券番もやっていたと

思って間違いはないのだろう。

尾道案内』がビジネス振興と観光の案内書であるからには、多数の宣伝広告のページがある。

そこで、「尾道新地芸妓・偕楽舎券番」という広告が掲載されている。

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尾道案内』には芸者36名の名前が掲載されているが、そのうちの7名の写真が載せてある。

彼女たちは、そのころ、もっとも人気のあった看板芸者だったにちがいない。

いま上から順に、名前を見て行こう。

最上段は置屋「平利」の喜美

二段目左が「柏屋」のお染、右が「高琴」の雪乃

三段目は「調鶴楼」の久恵

四段目左は「平利」のお悦、右が「桝米」の小米

一番下の芸妓の名前は不祥。


なぜ、こんな写真まで見つけてくるかというと、志賀直哉が新開や新地で遊興や放蕩を

していた、その相手は発見できないにしても、おおよそこんな顔や髪型をした女たちだった

と想像できるからである。

彼女たちの誰かは、志賀直哉のお座敷に呼ばれた可能性だってあるだろうから。


彼女たちの年齢はいくつくらいか。


忍甲一著『近代尾道遊廓志稿』という本がある。明治期から昭和33年の廃娼までの尾道久保遊廓に

関する資料を収集した特異な書物である。しかし、尾道遊廓についての資料はきわめて少なく、

苦労しているが、年齢については、呉の朝日遊廓の娼妓の年齢を参考に示している。

それによると、全170名で、

18歳=1名
19歳=26名
20歳=52名
21歳=31名
22歳=39名
23歳=17名
24歳=3名
25歳が最高齢=1名

だったそうだから、尾道でも19~22くらいの芸娼妓が多かったのではないか。

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