大田南畝という快楽(5)
―《四方赤良》天明期の南畝―
狂歌の作者たちはみんな面白い名前をつけました。狂歌ばかりか名前まで滑稽でパロディー化したのです。滑稽な狂歌名をもつことで、身分制度にしばられた現実の自分から抜け出して、笑いにみちた虚構の世界で自由を獲得しようとしたともいえるでしょう。
面白い狂歌名もまた、狂歌ブームの一因となりました。
四方赤良という狂名は、神田和泉町の四方久兵衛の銘酒《滝水》からとったもので、「あから」は呑めば顔が赤らむというので当時の酒の俗称でした。
南畝のまわりにつどった狂歌人たちの名前はおもしろい。
「あっけらかん」をもじった朱楽菅江(あけらかんこう)、数寄屋橋の汁粉屋で南畝門下の鹿都部真顔(しかつべのながお)、浅草橋で旅館をいとなんでいた宿屋飯盛(やどやのめしもり)、日本橋の大屋だった大屋裏住(おおやのうらずみ)、小島藩士で戯作者の恋川春町が酒上不埒(さけのうえのふらち)、市川団十郎が花道つらね(はなみちのつらね)といったごとくです。
上掲の肖像は南畝の盟友だった朱楽菅江のものです。似顔絵らしくもあります。
かれらの職業をちょっとみても分かるとおり、武家から町人、吉原から歌舞伎界まで、南畝の狂歌を媒介とした交遊は広範囲にひろがっていました。
そうした南畝を中心にした狂歌人気に出版界が目をつけないはずがありません。
天明3(1783)年春、35歳の南畝と朱楽菅江らが編纂した狂歌集『万載狂歌集』が出版されました。
それは、出版界の大事件となりました。
まさに爆発的な人気をもって迎えられました。
世にいう、天明狂歌ブームの幕開けとなったのです。
時代はいわゆる田沼時代で、老中田沼意次による積極的な経済政策の時代であり、規制緩和、解放経済といってもいいでしょう。その時代風潮に狂歌ブームは乗ったのでした。
『万載狂歌集』から、四方赤良の歌をふたつ紹介します。
羽子(はご)の子のひとごにふたご見わたせば よめ御にいつかならん娘子
「ひとごにふたご」という羽根突き歌を土台にして、「こ」をかさねてリズム感がよく、いつかなる嫁御、という南畝のやさしいまなざしの歌。
数え歌らしく、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、と数がよみこんである。
女郎花(をみなへし)口もさが野にたった今 僧正さんが落ちなんした
これはパロディー歌です。『古今集』にある僧正遍昭(へんじょう)の歌「名にめでて折れるばかりぞ女郎花 われ落ちにきと人に語るな」をふまえたものです。
遍昭の歌は、おみなえしよ、おまえの名にひかれて手折ったばかりだよ、女郎の色香に迷ったなどと人に告げ口しないでおくれ、という意味です。
南畝の狂歌は、洛北嵯峨野に咲いた女郎花を、口さがない女郎にみたてて、言うことには、たったいま私の色香に迷って、僧正さんが落ち(女犯=にょぼん)なんした、と吹聴したと、いう面白さ。
どちらも、知性的なあそび心、しゃれ心に溢れています。はつらつとした、いかにも南畝らしい狂歌です。
一夜にして四方赤良、すなわち大田南畝は江戸のスーパースターとなった。
各界に狂歌連が結成されて、南畝はリーダーとして招かれます。歌舞伎界が招く、金持ちの商家が招く、文芸好きの旗本、大名が招く、吉原の楼主たちが招く。
招かれれば、盛大な酒宴となって、即興で狂歌をよむ。揮毫する。芸者や遊女にとりまかれる。
天明狂歌ブーム、赤良ブームで引っ張りだことなりました。
『万載狂歌集』の大ヒットの後をうけて、南畝が編纂する狂歌集は、天明5年正月に『徳和歌後万載集』として、さらに2年後の天明7年に、『狂歌才蔵集』として出ますが、どちらの大成功をおさめました。
そこから一首。
世中はさてもせわしき酒のかん ちろりのはかまきたりぬいだり
家で酒を飲んでいても、酒の間に来客があれば、武家だから、脱いでいたハカマをちろり(ちょっと)はいて出る。酒の席にもどってハカマを脱げば、また来客でハカマをつける。わずらわしい人の世とはそのようなものだ。酒のかんをする道具チロリを湯からせわしく出し入れするみたいに。
とかなんとかいっても、南畝は有頂天でした。わが世の春、という気分だったでしょう。