大田南畝という快楽(3)

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   ―《寝惚先生》安永期の南畝―

 大田南畝は、いまからおよそ250年前の1749年、江戸の牛込仲御徒町に生まれました。今日の住所表記では、新宿区中町です。JR市ヶ谷駅から神楽坂を上がったあたりになりますね。

 亡くなったのは1823年で、約180年前、75歳でした。当時としては稀な長寿にめぐまれた人でした。終焉の地は駿河台で、今のJRお茶の水駅の聖橋たもとの改札口を出たところでした。(日立のビルが立っている敷地内に標識があります)

 大田家の身分は御家人で、代々が御徒(おかち)でした。御徒というのは、戦時には歩兵です。平時には江戸城内の要所要所に詰めて、仕事はもっぱら警固役でした。
 将軍が外出するときには警固の行列に加わったり、鷹狩りをするといえば、鳥など獲物を草むらから追い立てる役目をしました。
 要するに、学問があっても、才能があっても、そんなもの何の役にも立たない、身分の低い侍でした。

 御徒の年収である禄高は70俵5人扶持です。

 そのころの江戸町奉行所の同心の年収が、まったく同じ70俵5人扶持でした。お米の相場によって、もちろん変動はありますが、金高にしておよそ28両相当とする資料があります。
 現代の物価、貨幣価値との比較はむつかしいのですが、たとえば1両は5~10万円とされていますから、御徒の年収は140万~280万円くらいだったといえそうです。安い年俸ということですね。
 映画に出てくる定回り同心が、袖の下をもらったり、つけとどけなどの副収入なしでは、まともな生活できなかったのも当然です。

 直次郎(南畝)には上に姉が2人、弟が1人ありました。両親と子供4人の組屋敷のくらし。武家とはいっても、下男も下女も雇えない貧乏暮らしでした。
 姉たちは早々と嫁いでいきましたし、弟は他家に養子に出されました。

 南畝は幼少から神童といわれたくらい記憶力、知識欲にすぐれ、早熟で利発な少年でしたから、両親は彼に大きな期待をよせていました。
 乏しい家計のなかをヤリクリして、彼に教育をつけさせました。

 15歳で、おなじ牛込の加賀町にあった内山椿軒先生に入門します。
 
 椿軒は漢学、国学、和歌を教えていましたが、はじめにも紹介したように、椿軒先生のもとで南畝は狂歌のてほどきを受けることになりました。南畝にとって、狂歌との邂逅をセットしてくれた椿軒先生とは、まさに運命的な出遭いだったといえるでしょうね。

 17歳、南畝は松崎観海にも入門して、漢詩文を学び、漢詩をつくりはじめます。

 18になった南畝は、椿軒塾の先輩だった平秩東作(へづつとうさく)の手引きで知り合った、平賀源内たちの戯作活動に刺激をうけて、漢文の戯作とか狂詩をつくりはじめます。
 なにをはじめても、平賀源内たち、その道の先輩たちを驚嘆させる天才ぶりを発揮しました。

 たとえば、武士の貧乏生活をつぎのように,七言古詩の体をかりて滑稽な詩をつくります。

              貧鈍行(ひんどんこう)

         為貧為鈍奈世何        貧すれば鈍する世を奈何(いかん)せん
         食也不食吾口過        食うや食わずの吾が口過ぎ
         君不聞地獄沙汰金次第    君聞かずや地獄の沙汰も金次第
         于挊追付貧乏多        挊(かせぐ)に追い付く貧乏多し


 一見普通の漢詩のように見えます。何、過、多、と韻も踏んでいます。ところが、漢詩では決して使わない「貧すれば鈍する」「食うや食わず」「口過ぎ」「地獄の沙汰も金次第」「かせぐに追い付く貧乏多し(貧乏なしを逆転させる)」などという、卑俗な慣用句やことわざを持ちこんでいます。
 そのために、漢詩を教養の基礎としていた武士階級の読者がみれば、そのアンバランスの滑稽さ、意表をついた逆転の妙に、はじめは驚きあきれ、つぎに笑いだし、さいごには共感をおぼえて喝采を禁じ得なくなった、というしだい。

 南畝がつくる、こうした狂詩とか狂文をあつめた『寝惚先生文集』が、当時の戯作の大先輩である平賀源内の序文をつけて出版されました。
 南畝は若干19歳でした。

 この本の売れたこと、売れたこと。江戸ばかりではありませんよ。京、大坂、いや地方の読書階級の間で、「寝惚先生」の名前は雷鳴のごとく轟いたものです。彼は一朝にして有名人になりました。
 この小冊子の『文集』が日本中に狂詩ブームを巻き起こしました。

 南畝の文才の早熟さにおどろいているばかりではいけません。いま、彼の天才に火がついたばかりなのですから。