大田南畝という快楽(6)

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  ―愛妾おしず―

 そうした狂歌集におさめられた歌とは、おもむきの異なった恋の歌がいくつかあります。

 真情が吐露されたシリアスな歌です。

      をやまんとすれども雨のあししげく 又もふみこむ恋のぬかるみ

小やみになったかな、とみえた雨脚はまたもつよい降りとなり、道のぬかるみはふかくなるばかりだが、わたしの恋もこの雨のようにやめようとしてもやめられない。女に逢うため、ぬかるんだ道に足を踏み出して、ふかまにはまり込むるばかりだよ、と胸のうちの苦しさを詠っています。

 狂歌ファンの吉原の楼主たちに招待され、遊里で遊んでいた南畝が、三保崎という新造の遊女を見染め、なじみをかさねて足繁く通っていたときの歌です。
 大雨つづきで、大水が出たときの歌だと説明しています。

 いまや南畝は有名人ではありますが、吉原で頻繁に遊べる金持ちになったわけではありません。金持ちの遊びに陪席するか、南畝の門人となった楼主の招きか、どちらにしても、他人の財布で遊んだのでしょう。
 
 ぞっこん惚れ込んで、ついに微禄の御徒の分際で、彼女を身請けしてしまいました。

 身請け金は、南畝とりまきのうちの金持ちから借りたものとおもわれます。

 遊女三保崎の名前をお賤(しず)にかえさせました。さて、お賤をどこに住まわせるか、それがつぎの悩みのタネとなりました。
 知人の別荘やお寺に預けたりしていましたが、彼女が病気になったものですから、思いあぐねたすえに、自宅の庭に離れをつくって、そこに囲うことにしました。

 南畝が38歳、お賤は20歳あまりだったでしょう。母屋には両親がおり、妻と娘と息子がいたのです。離れとはいっても、犬のウンコがころがっていた、あの広くもない庭に建てられた離れに、南畝は愛妾を囲ったのです。現代ではとても耐えられない生活ですよね。

 お賤は南畝が好きだったからと、里ことば、いわゆる「ありんす」言葉ですが、さいごまで里ことばをつかっていたそうです。
 母屋の南畝の本妻や両親にもよくつかえて、かわいがられたと伝えられましたが、本妻の気持ちはどうだったか、南畝は書き残していません。
 
 離れの建築費もあらたな借金となりました。お賤の身請けの上に、つみかさなった借金を返済するため、狂歌集、狂詩集、狂文集を矢継ぎ早に出版することになります。

 南畝に身請けされた後から病気がちだったお賤ですが、7年のちに病死しました。

      やみぬれば緒のなき琴のねすがたを ただかきなでてみるばかりなり

 この歌には「やめる女のかたわらにそひふし侍りて」と説明があります。
 中国の詩人陶淵明が、酒を飲むときには、無弦琴を撫でさすりながら意を寄せたという故事を踏まえた哀切な歌です。

 お賤が死んだのは南畝が45歳のときでした。お賤の死後、その命日には毎年ゆかりの寺に、友人たちを招いて追善の詩歌の会を催しています。
 南畝は75歳で死んだのですが、73歳のとき、お賤29回忌でつくった歌がのこされていますから、南畝の女性への愛情のいちずさ、情の深さという、彼の一面を物語っています。



 上掲の写真は、ぼくわくわく亭が数年前、文京区白山の本念寺に、南畝の墓をたずねたときに撮ったお賤の墓石です。右側に見えているのは南畝の母親の墓です。
 
 写真では分かりにくいでしょうが、お賤さんの戒名が刻してあります。文字は側面にある碑銘ともどもに南畝の手によるものです。

 このお賤さんの墓は、ながい歳月行方不明になっていた幻の墓だったのです。
 
 南畝の研究家として有名な玉林晴朗さんや浜田義一郎さんの研究書に、この大田家の墓地の写真がのせてありますが、一家のたくさんの墓があるのに、たったひとつお賤さんお墓だけがなくて、みあたらないと書いてありました。

 南畝びいきの永井荷風も本念寺をおとづれて、お賤さんの墓は残っていないと落胆しているのです。

 その幻の墓を、僕が見たのですから、ほんとうに興奮したものでした。

 お寺さんの墓地の整理のために、無縁墓石をかたづけたりしたときに、たくさんの南畝一家の墓はどこかにかたづけられて、反対に再発見されたお賤さんの墓が陽の目をみることになったらしいのです。

 いま本念寺にあるのは、南畝の墓、父の墓、母の墓、そしてお賤の4墓です。

 荷風がやってきた当時に並んでいた、妻、息子夫婦、伯母、祖父母、曾孫、妾お香、南畝とお香の娘お兼の墓は姿を消してしまいました。
 かんがえてみれば、関東大震災、太平洋戦争などを経ながら、東京にあった寺院の墓地は、なんども姿を変えてきたにちがいないでしょう。

 地下の南畝は、自分の墓の横に両親とお賤の墓だけが残されていることを、なんと思っているでしょうか。