大田南畝という快楽(4)

イメージ 1

 
   ―山手馬鹿人―

 南畝は17歳で御徒となりました。20歳には大田家の家督を継ぎましたから、一家の生活の苦労を彼が担うことになりました。さぞや、うんざりしたことでしょう。
 
 彼は御徒の職にあきたらず、学問で身を立てるつもりでいたでしょうが、身分制のタガをがっちりはめられた時代に、それは彼の非凡な能力をもってしても、容易なことではなかったのです。

 23歳で6つ年下の妻をむかえます。
 
 そのころ、御徒組屋敷内の、自分の家のようすを、病気をして寝込んだときに書いていますが、それによっても、ずいぶんのあばら屋らしいのです。

 
 ……南畝の病床があるすぐ外のせまい庭には、いつものように犬のクソがころがっており、頭の上には物干し竿がのびてオシメが干してある。枕もとを幼子がかけずりまわり、後から女の子が追いかけて、つかめえておしっこさせないと漏らしてしまう、と母親にいいつけている。
 隣とのさかいの塀ごしに、下手な三味線の音がやかましくきこえてくるし、反対側の隣の軒下からは飯を炊く煙がたちのぼって、まるで下町の貧乏長屋をほうふつとします……。


 貧乏御家人の生活苦に耐えながら、一家のくらしの足しにと、しきりと洒落本(しゃれぼん)を書きました。咄本(はなしぼん)を書きました。

 内山先生や松崎先生の学問塾でどんなに英名がたかかろうと、御徒は御徒どまりで、立身出世のとびらはひらかない。自分の文才に自信をもった、若い南畝のあふれんばかりの情熱が、戯作や狂歌に向かったのはごく自然の流れです。

 洒落本や咄本を書くときには、主に山手馬鹿人(やまてのばかひと)の筆名をつかいました。

 洒落本というジャンルは、たとえば彼の『甲駅新話』を例にとると、内藤新宿の宿場女郎についての、風俗や習慣、傾向などの、玄人うけするほどの詳細(そうしたものを、うがち、と称した)を書いた情報文芸、といったようなもの。そんな遊里の遊び方の常識にうとい、田舎侍や半可通の野暮天をからかう軽文芸が洒落本です。

 僕わくわく亭も、洒落本の作者にかかれば「半可通」としてばっさりやられたことでしょう。

 咄本は落語のネタになったような、江戸小咄をあつめた本です。
 南畝の創作というより、江戸庶民の間で語られていた笑い話を、もっと面白く、改作、翻案したものです。
 興味のあるかたは、講談社文庫におさめられた『江戸小咄』でお手軽に読むことができます。

 軽妙洒脱でキレのある南畝の文体は、さすが、と思わせます。狂歌や狂詩についで、こうした卑俗な文章においても、滑稽さを生み出す南畝のすぐれた表現力がみてとれます。

 ひとつだけ例として紹介しましょう。


     《橋の下》

  大晦日の晩、橋の下に、乞食夫婦寝ていて聞けば、橋の上の人通りの足音引きもきらず。

 あまりやかましさに、こじきの嬶(かか)、目をさまして、亭主に、「あれは何ぞ」ときけば、

 「はて、しれたことさ。かけ取りじゃは」

 かか「なんぼかけ取れても、この寒い夜の八つ(午前2時)七つ(午前4時)に外をありくは、たいてい 
 なことではない。それより、こふ寝ているがましか」といへば、

 亭主枕をもたげて、「それはたがかげ(だれのおかげ)じゃと思ふ」


 こうしている中にも、南畝が四方赤良の名前でよんでいました狂歌の人気は、内山塾のサークルの敷居を大きく飛び越えて、江戸市中に広がっていきました。
 
 彼の知らないうちに、彼の狂歌作者としての名声は江戸庶民の中はもちろん、歌舞伎界から吉原、旗本、大名までにとどろいて、新しい江戸のヒーローになりつつあったのです。