大田南畝という快楽(2)

  
   ―伝説の中の蜀山人

 すこし古いテレビ時代劇で恐縮ですが、M電器が提供していた「大江戸を駈ける 怒れ!求馬」という番組がありました。

 南町奉行所の年若い同心が主人公。彼の祖父が町奉行で、奉行の親友が大田蜀山人、という設定。
 今は亡き植木等さんがその蜀山人役でした。主人公の陰になり日向になりしながら、推理力で捕り物に力を貸すという役どころ。植木等さんの飄飄とした面白い持ち味が、武家でありながら、狂歌師の飄逸さをかもし出す蜀山人にふさわしいと考えての配役だったのでしょう。

 さきの落語もそうですが、蜀山人といえば、どこか滑稽な、洒落っ気のある江戸っ子で、面白い逸話をかずかず残した畸人か変人。または頓知や機知でもって、難問を解決する講談のヒーローといった人物像が残されています。

 人々は、洒脱、滑稽な狂歌をつくるから、作者も滑稽な人だろうと、イメージしやすい。いつのまにか大田南畝は滑稽な人物という虚像がうまれました。

 明治大正、そして戦前までの昭和時代、蜀山人についてたくさんの講談本、こっけいな狂歌咄、笑い話、少年向けの漫談といったものが出版されていました。
 それらは、「頓知の一休さん」「曾呂利新左衛門」「水戸黄門漫遊記」などとおなじで、ほとんどが歴史的根拠がない、でっちあげの虚像でした。

 戦後、きまじめな「純文学」を主としてとりあげてきた近世文学史家の眼には、大田南畝のそうした虚像ばかりが映り、実像は忘れ去られてしまいました。
 四方赤良、蜀山人の存在ばかりでなく、狂歌そのものが二流、三流の文芸という烙印を押されて、まともな評価をうけてきませんでした。

 ようやく本格的に再評価の動きがあらわれたのは、昭和60年ころになって、岩波書店から「大田南畝全集」が刊行される前後からといえるでしょう。

 それでは、大田南畝の実像はどんなものなのか。

 変人奇人のたぐいではありません。

 むしろ、江戸で屈指の読書家、蔵書家で、勤勉で有能な勘定所(こんにちでいえば財務省)の勤め人であり、勤めが終わると、漢詩狂歌仲間と文芸趣味に遊びながら酒をくむ風流人。

 そして彼がつくる狂歌とは、生きることが好きだ、浮世が、人間が好きだと、人間肯定を詠う狂歌なのでした。

 それでは次回からは,南畝の生涯を簡単にお話しましょう。