大田南畝という快楽(1)

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 大田南畝(おおたなんぽ)というユニークな江戸の詩人の生き方、仕事ぶりをながめながら、江戸文化の成熟さを味わいたいと思って、この『大田南畝という快楽』というタイトルをつけました。

 南畝の代表芸はもちろん江戸狂歌です。狂歌がどんなに面白い文芸ジャンルだったか、その代表選手だった南畝はどんな人物だったか。何回かにわけて、ぼちぼちお話します。

 大田南畝は江戸後期(1749~1823)に生きた人です。名前は覃(たん)で通称が直次郎。南畝というのは少年のころから晩年までつかっていた号です。
 彼は、30代の天明期には四方赤良(よものあから)という名前で狂歌をよみ、文化文政期には蜀山人(しょくさんじん)の名前で日本国中に知れわたった狂歌の天才です。

 その天明年間というのは、いまから約220年のむかし、経済的には元気のあったバブル期でしたが、それにつづいた寛政年間からは活力の失われたデフレ期がやってきて、ころころ変わる為政者の政策変更のため、文化活動をするものは振り回されて、なにかと生きづらい時代でしたが、南畝は狂歌という笑いの文芸で一世を風靡しました。
 その一方、実生活においては、下級武士のせちがらい人生を、我慢強く、他人とは争わず、出世と金に縁のない身をみずから慰めながら、75年という長寿を生きた粋な文人でした。
 その人気は、同時代のお相撲の谷風、歌舞伎の市川團十郎に肩を並べたほどで、狂歌だけではなく、多彩な才能は漢詩、狂詩、随筆、小咄本、洒落本などにも及んでいるのです。


   ―南畝の狂歌とはどんなものか―
         

 あるとき、内山椿軒(うちやまちんけん)という南畝の漢学の先生が、門人たちと酒を飲んでいましたら、蚤(のみ)がとんできて、盃の中にとびこみました。それを見た椿軒先生が狂歌をよみました。

        さかずきに飛びこむ蚤も呑み仲間 押さへもされずつぶされもせず 

 すると南畝はその返歌(へんか)をよみました。

        あたまからおさへられてはたまらない のみ逃げはせじ晩に来てさす

 「さす」は蚤が「刺す」のと酒を注ぐという意味の「差す」とに掛けているわけです。

 この狂歌は面白いので、笑い話の本とか落語にもつかわれています。落語では先の歌が南畝の作で、あとの歌は蚤がつくったことになっています。
 しかし、岩波書店の「大田南畝全集」にはこれらの歌は収録されていません。世人が南畝の作品と信じていたものでも、「南畝全集」がそれを南畝作とみとめていないのは、なぜか。
 そんな例は数限りなくあるのです。全集に収められた歌はおよそ4000首あります。それらは狂歌集など、出版されて南畝作だと実証できるものを集めているのですが、そのほかに南畝が酒席などで即興で、詠み捨てにしたものがたくさんあったはずです。
 もともと本歌、つまり和歌とはちがって、狂歌は詠み捨てにするのが常識だったのです。招かれた宴席などで、お客のもとめにこたえて即興で詠んだ南畝の狂歌は、実際どれほどあったかわかりません。

 それでは、南畝の正真正銘の狂歌とはどんなものか、彼の特徴がよく出た作をいくつか紹介しておきましょう。

        ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ 鶉なくなる深草の里

 これは南畝が60代になり、蜀山人の名前でよんだ狂歌です。歌の解釈は、1羽とり、二羽とりして、焼き鳥にして食べていると、深草の里からウズラがいなくなったよ、というもの。
 これだけでは、面白くもなんともない。
 ところが、これには下敷きになった本歌があって、そのパロディー歌なのです。もとの歌を知っていれば、だんぜん面白いのです。
 
 本歌は藤原俊成の「夕されば野辺の秋風身にしみて うずらなくなり深草の里」です。
 ものさびしげな秋の風情です。その風雅のキーワードとなっているウズラの「鳴く」声を、食べてしまってウズラが「なくなる」と転じて、「雅」から「俗」へと、価値をひっくりかえした滑稽さがみごとではないですか。
 風雅の世界から、花よりだんごの世界に早変わりの妙。その落差が、本歌を知っている読者を、笑わせます。

 つぎの3首は、30代の南畝が四方赤良(よものあから)の名前でよんだ狂歌です。江戸天明期の、沸騰する狂歌人気の中心的な存在だったころの作品です。

        ほととぎす鳴きつるあとにあきれたる 後徳大寺の有明の顔

 南畝の代表的なパロディー歌のひとつです。百人一首にある後徳大寺左大臣 藤原実定の歌「ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞのこれる」が本歌。

        あなうなぎいづくの山のいもと背を さかれて後(のち)に身を焦がすとは

 「鰻に寄せる恋」という題がついています。
 うなぎは、元はやまいもだったという伝承がありました。恋する男女の意である妹背(いもせ)を「山のいもとせ」とします。江戸では、うなぎを蒲焼きにするとき、背から割きました。これらの要素をまことたくみに掛け合わせてつくった傑作です。
 上に掲げた四方赤良の画像は、似顔絵ではありませんが、歌はこの「鰻に寄せる恋」で、文字は南畝の手になる版下だということです。かっこいいですね。

        くれ竹の世の人なみに松たてゝ やぶれ障子に春は来にけり

 本歌のパロディー歌ではありません。御徒(おかち)という下級身分の御家人(ごけにん)だった南畝が、組屋敷のボロ家でむかえた正月、もしくは年の暮れの風景です。
 「くれ竹」は「世」にかかる枕ことば。破れ障子を貼りながら、春にそなえるのは南畝自身でしょう。「貼る」と「春」をかけた技巧のすくない、それだけに貧乏暮らしながらも、どこかすがすがしさが感じられる江戸の春ではないですか。