長崎の南畝

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“長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”というブログがあって、その著者みさき道人さんが

長崎滞在時の大田南畝の足跡を調べておいでになるのを知って、さきごろ旧著の

『崎陽忘じがたくー長崎の大田南畝』を贈呈した。

すると、その本を次のように紹介して頂いた。

     (全文はこちら→http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/67166793.html)



私と森岡氏との関係は、森岡氏へこのとき烽火山の歌碑資料を何かお持ちではないかと照会したのに始まり、現在もブログ上で交流している。最近、同氏から自著名入りの本『崎陽忘じがたく―長崎の大田南畝』を「恵存」として寄贈を受けた。
 74頁の記述は次のとおり。文化2年(1805)大田南畝は57歳の元旦を長崎奉行所の岩原官舎で迎えた。

 「五日は奉行所役人の新年会があった。六日は舟で飽之浦へゆき、山越えして福田浦へ出て岩洞を見物した。翌七日は烽火山へ登った。寛永年間まで山頂に烽火台が築かれていて、その遺址があった。そこから長崎の市街が眼下に一望された。
 滄海の春雲紫瀾を捲く、崎陽の囂市一彈丸、西のかた五島に連なり南(東?)は天草、烽火山頭目を極めて見る。(囂市はさわがしい市街)
 山をくだり高岳院にて酒食。「薄暮帰酔いたし候、と日記にある」

 私にとっては、大田南畝が烽火山に登頂した正しい日がわかり、本ブログ名勝図絵の風景や古写真考で紹介した福田の岩洞まで見物していたとは、うれしい記述があった貴重な本となった。

 さて次は、同じ本において別に目新しい記述を見つけた。145~146頁の記述は次のとおり。大田南畝の従者の一人、増田長蔵の墓碑銘についてである。

 「文化二(1805)年の陰暦四月十日、大田南畝の従者増田長蔵が病死した。…行年三十歳、伊豆の人であった。当時多かった脚気によるものではなかったか。…
 南畝は自分が長崎着任時に重篤な病気にかかり、なんとか命びろいをしたが、いま長蔵が身がわりに立ったのではないかと、ひとしお哀れに思われて、彼の葬儀に出費を惜しまなかった。
 葬儀は立山奉行所と岩原川をはさんで隣接する禅寺永昌寺でとり行った。奉行所からは勘定方、普請役、用達方、筆者たちが裃を着して参列した。墓地は寺の後背の山中にあり、崩れるおそれのないよろしき所を選んで埋葬した。墓石の背面に行書で南畝が書いた墓碑銘がいれられた」

 永昌寺後背の山中の墓地に、増田長蔵の墓が残ってないか。「墓石の背面に行書で南畝が書いた墓碑銘がいれられた」とあるから、墓碑銘の存在を確かめたかった。
 長崎市玉園町の永昌寺は、正保3年(1646)、晧臺寺伝法一祖一庭融頓が、法嗣の洲山泉益と共に創立した寺院。寺地は平戸道喜の別荘だったが、その妻が喜捨した。鎖国時代、長崎奉行所の遠見番所が置かれた。
 そんな広い墓地ではない。本堂左の下段からあるが、中段部分に聖福寺領を一部挟み、上段の山近くも永昌寺の墓地である。

 原爆の被害はここまで及ばなかったので、山中すなわち上段墓地あたりに、増田長蔵の墓が残っていて良さそうなものだが、見当たらなかった。古い「増田家」の墓が、状況に似た高台の場所に1区画あった。上段の方の阿蘭陀通詞西家墓地のまだ上となる。
 ただ、刻まれた氏名は、明治36年4月没の完全な別人の墓。明治44年作成の寺墓地図で確かめたが、番地では142番2。所有者は大村の人。戦後に142番の荒木家から分筆された墓地だった。付近は新旧の墓が混ざった場所となっている。

 寺の先代住職が2年前亡くなり、墓地の事情がわからなくなっている。せっかく南畝が書いた墓碑銘があった墓なのに、従者増田長蔵自身はそれほど有名人ではなかったため、墓が撤去された可能性がある。出身地伊豆へ移されたこともあるかも知れない。
 まことに惜しい墓碑銘の結末となった。どなたか事情を知る人、または別の記録がないものだろうか。


わくわく亭の13年も昔の著書が、このように大切に読まれていることに感じ入っています。