大田南畝という快楽(8)

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   ―《蜀山人》寛政期からの南畝―

 寛政元年(1789)には、南畝は41です。

 平均寿命が45歳くらいの時代ですから、普通の人であれば、41歳は彼の人生の終末です。
 ところが、南畝という人がもっている精神の柔軟さは、挫折することなく、つぎの時代を生きていくのです。

 松平定信がはじめた人材登用策である幕臣たちの学問吟味を、南畝は受験しました。そのとき南畝は46歳になっていました。現代人の年齢に置き換えてみれば、60とか65歳のかんじでしょう。
 自分が研鑽してきた彼の学問への自信もさることながら、人材登用試験に挑戦する彼の精神の若々しさは、すごいことです。

 しかも、です。
 目見得(めみえ)以下のクラスでは、首席の成績だったのですよ。
 目見得以上、つまり将軍に拝謁がゆるされる旗本以上のクラスでは、首席は遠山金四郎でした。(おなじ金四郎の名前ですが、映画でおなじみの、入れ墨判官の金さんの父親です)

 48歳で、支配勘定に登用されます。いまでなら財務省の係長クラスでしょう。御徒より禄高がすこし上がって、100俵5人扶持になりました。役所では部下が7人つきました。

 勘定所ではじめに与えられた仕事は、竹橋にあった倉庫の中での古い帳簿類の整理作業でした。
 これは、そのころの歌です。

      五月雨(さみだれ)の日もたけ橋の反古(ほご)しらべ、今日もふる帳あすもふる帳

 さみだれとは旧暦5月の長雨のことで、つまり現在の6月ころの梅雨のながあめのことですから、今日も、明日も降るわけです。支配勘定に抜擢されたと喜んだものの、毎日の古帳調べにうんざりした南畝の表情が見事にうたわれているではないですか。

 南畝は50の年に妻の里与(りよ)を病気で失いました。やもめとなったのです。

 53の年に役人として陽の当たる職務につきます。大坂銅座への一年間の出役です。
 大坂では木村兼葭堂(けんかどう)や上田秋成と親交ができました。
 大坂にきてみておどろいたことに、南畝の名声は江戸における天明期の名声そのものでした。寝惚先生、四方赤良はいまも変わらず生きているのでした。
 
 南畝は蜀山人の名前で狂歌をつくりはじめました。狂歌師としての南畝のカンバックでした。
 《蜀山》とは銅の異名で、大坂銅座をイメージしたものです。

 一年たって江戸に帰りますと、江戸でも蜀山人の名前は知れ渡っており、狂歌界の大御所としてたてまつられます。

 その年の末に、小石川の家を買って、翌年移り住みますが、生まれ育った牛込の御徒組屋敷のあばら屋から、やっと脱出ができたのでした。
 家は借金をして買ったもので、代金は分割払いです。54歳にもなって、住宅ローンを組んだようなものですね。

 56の年には、こんどは長崎奉行所に一年間の出役です。
 長崎の地にも南畝の狂歌名はとどろいていました。
 
 長崎では唐人屋敷の中国商人たちと漢詩を交換し合ったり、出島のオランダ商館をたずねてコーヒーを飲んだり、ビリヤードを見物したりします。
 
 たまたまロシアの軍艦が使節をのせて来航中であり、その使節と会談したり、ロシア使節と交渉のため江戸からやってきた遠山金四郎と再会するなど、めずらしい体験をかさねました。

 大坂銅座、長崎奉行所と出役がつづいたものだから、南畝はまわりから、羨まれたり妬まれたりしました。
 どちらも役得の多い出役で、たいていは一年の任期でも、たっぷりと懐をこやしてかえってくるからです。なかには一財産つくるものもいました。
 ところが南畝の場合、文化人との交流や書物文献への関心ばかりで、蓄財にはまるで無関心でしたから、同僚たちからは、そんな無欲の南畝を、変人あつかいされ、「あほうどり」と陰口をきかれていました。

 いよいよ江戸にもどる日がせまり、自分の物としては、南蛮わたりのラシャの一種であるヘルヘトワンの羽織を一枚手に入れました。その歌があります。

      ふるさとに飾る錦は一歳(いっさい)を ヘルヘトワンの羽織一枚

 大坂銅座、長崎奉行所の両方をつとめたものは、支配勘定から上にのぼって、勘定組頭にすすむ出世コースときまっていました。
 ところが南畝に出世の音沙汰はきこえてこず、終生支配勘定でおわりました。

 狂歌、狂詩における高すぎる文名が、お役人としての出世の妨げになったのだとおもわれます。

 現代でも、サラリーマンが音楽CDをだしたり、小説が売れて人気者になったりすると、ねたましさもあって、社業に専念しないものと白眼視されるではないですか。
 ましてや、江戸時代ですよ。狂歌大田南畝が出世できるわけがありませんよね。