大田南畝という快楽(7)

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  ―南畝の危機―

 狂歌人気の絶頂期にいた天明7年、すなわちお賤(しず)を身請けした翌年、39歳の南畝はとつぜん狂歌界と絶縁します。

 それは幕府内の政変が大きく関係しています。

 積極経済の政策をすすめていた老中田沼意次が失脚したのです。かわって、松平定信が老中首座に座りました。定信は幕府古来の節倹、統制経済への逆戻りをすすめる保守的政治家でした。
 いわばデフレ経済政策です。
 武士に対しては文武奨励の令を発する、いわゆる「寛政の改革」が準備されていました。

 (池波正太郎作『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵が、じっさいに火付盗賊改め方として歴史上活躍したのが、この天明7年から寛政7年までのことです)

 その日、南畝は御徒組の御徒頭に呼び出されました。

 ちかごろ江戸市中で南畝作だといって評判が高い落首があるが、あれはおまえのものか、と問い質されたのでした。その落首とは、つぎのものでした。

      世の中にかほどうるさき物はなし ぶんぶといふて身をせめるなり

 南畝は自分の作ではないと釈明させられます。
 
 落首というものは、匿名で政治的な批判をなす卑怯なもので、作者名(かりに狂歌名をつかったとしても)を名乗って風流を詠む狂歌とはまったく異質なものであり、自分はそのような卑怯なものはつくりません、と南畝は釈明したのでした。

 御徒頭は警告するのでした。
 このまま落首まがいの狂歌遊びをしていると、政争にまきこまれてスケープゴートにされてしまうぞ。吉原遊びもやめるがいい。そうでなくとも、おまえは遊女の身請けで、すでににらまれている。
 狂歌もやめろ。時代は変わったのだ、と。

 松浦静山(まつらせいざん)の『甲子夜話』(かっしやわ)には上の落首の下の句を「ぶんぶというて夜も寝られず」として、これは「大田直次郎という御徒士のよんだ落首」であるとはっきり書き留めています。
 南畝が御徒頭になんと弁明しようとも、世間ではそうした松平定信の保守的改革を批判したいくつもの落首が、南畝のものだと言いふらされていたのです。
 有名税というものでしょう。南畝の名前がかってに一人歩きしていたのです。

 南畝は自分で思っていた以上に、じつは危ない橋をわったていたのです。


 田沼政権下ではたらいていた高級官僚である旗本たちが、つぎつぎと過去の失政や罪をとわれて罷免され、追放されはじめました。
 なかでも南畝にとってショックだったのは、南畝たちの豪遊のスポンサーだった旗本土山宗次郎の悲劇です。
 彼は米の買い付けに不正があったとか、吉原の遊女を身請けして身持ちよろしからず、などなど数々の罪状をきせられて、死刑になってしまいました。

 南畝の吉原遊びにしろ、遊女身請けにしろ、土山宗次郎のミニ版です。南畝に危機1せまる、です。

 内山椿軒先生の漢学塾いらいの狂歌仲間だった平秩東作が逮捕されました。彼は土山宗次郎が逐電したときに、山口観音にかくまったのですが、それが露見してつかまったのです。ひどい拷問もうけたらしいのです。
 彼はまた平賀源内が獄死したとき、だれも引き取り手のなかった源内の死骸を、ひきとってきたという豪傑でもあったのです。彼は源内同様に山師よばわりされたほど、いろいろな職業についたり、蝦夷地を見聞してきたり、政治家にコネをつけるのが巧みだったりと、近代的な積極人間だったようです。
 
 酒上不埒の名で狂歌の仲間だった恋川春町は自殺することになったし、武士階級で狂歌や戯作をつくっていたものはつぎつぎと筆を折ることになったのです。


 南畝はすっぱりと狂歌界から足を洗ってしまいます。

 それを現代に、「転向」「保身の人」「変わり身が早い」と批判する人があります。しかし、江戸の戯作や狂歌作者を、近代の感覚で批判するのはスジがちがいます。
 きびしい身分制のもとで、家禄をまもっていきている幕臣大田南畝に、なぜ狂歌作家の良心にしたがって狂歌と心中しない、とせめるのはお門違い。狂歌より大田の家が大事です。
 狂歌は遊び心であって、家の存亡を賭ける対象ではありません。むしろ、敏感に時代の潮目の変化に対応できる、すぐれた時代感覚、その俊敏で軽いフットワークこそが狂歌の才能に通じています。
 
 さまざまな禁止令が出されました。そのたびに、おふれも厳しいが、すぐに禁令がゆるむことも体験的に江戸人は知っていました。
 「やめろ、といわれりゃ、やめもするが、また時代の風がかわるのを待ちましょう」と考えていました。
 
 南畝の「狂歌界との別れ」もまた、そうした江戸人の感覚に近かったことでしょう。


 上に掲げた肖像は平秩東作です。頭は丸めていますし、なにかへんてこな恰好ですが、いかにも「山師」と称された彼らしいではないですか。
 
 上に東作が土山宗次郎をかくまった山口観音のことに触れましたが、その観音堂はいまも残っているばかりか、盛んです。
 西武鉄道山口線の終点である西武ライオンズ球場前から歩いて5分のところです。

 山口観音のお隣には狭山不動尊があります。僕わくわく亭は、ここ20数年毎年初詣には狭山不動尊と山口観音に、夫婦でおまいりするきまりです。
 南畝と周辺の人物についてしらべる過程で、東作の手引きで土山が隠れていたのが、その山口観音だと知って、捕り手が土山を捕縛したありさまを想像したりしながら、僕ら夫婦は、毎年初詣の線香のもうもうたる煙につつまれているわけです。

 たくさんの参詣人のうちで、おそらく、その事件を知っているものはわくわく亭だけではないのでしょうか。