大田南畝という快楽(9)

イメージ 1

 
  ―雪もこんこん花もさけさけ―

 長崎から江戸にもどって、それまでやもめだった南畝は、門下の島田順蔵の娘お香を妾にむかえました。還暦をまえにして精力的な南畝です。そしてお香との間に娘をもうけています。

 60歳の年の12月から翌年の4月まで、玉川流域の巡視役を拝命しました。
 さすがに体力的にはつらい仕事だったでしょうが、その間にもぼうだいな量の見聞記をかいています。

 出張手当は5ヶ月分で15両でした。旅費を5両でまかなっておき、9両のこしました。その9両で自宅の書庫の修理をしています。
 南畝は江戸でも屈指の蔵書家でした。書物が高価だった時代に、2万巻の蔵書がありました。その半分は、彼が10代のころから、他人から借りてきた本を書き写して一巻にしたもので、本を愛する情熱のただごとでなかったことが分かります。

 玉川巡視から帰った年の暮れの歌があります。

      衣食住もち酒醤油炭たき木 なに不足なき年の暮れかな

 四方赤良時代にはみられなかった、実生活からの実感がにじみでた狂歌をつくるようになります。
 そこには、金と出世に縁のない人生を受け容れた南畝のこころがあらわれています。

 65になって、終の棲家となる駿河台に土地をたまわり、家を建てました。

 南畝は75の最晩年まで勘定所に出勤しています。倅定吉神経症というか心身症というか、持病があって、役所勤めに一度は出たのですがすぐに退職しました。
 大田家の家督を倅が継げないとなれば、孫に継がせねばなりません。そのことは、南畝の心を苦しめたことでしょう。
 孫の鎌太郎に期待して、その成長を我慢強く待ちながら、南畝は老骨をはげまして出勤していました。

 役所の勤務がおわれば、毎日のように招かれた宴会にいき酒を飲みました。家にもどれば、訪問客は二階家にみちあふれている。南畝に何か書いてもらおうとするファンたちです。

      世の中に人の来るこそうるさけれ とはいうもののおまえではなし

 これも南畝の狂歌として、他人の随筆にでていますが、『南畝全集』にとられていない歌です。
 黒沢明の映画『まあだだよ』の主人公のモデルとなっている内田百間の住まいに、この狂歌が張り出されていた逸話があります。

 蜀山人の歌は本質的に陽性で、生きるよろこびを湛えてています。四方赤良の時代の歌とくらべると、機知とキレのある笑いという点においては、蜀山人の歌は見劣りしますが、人生の風雪にみがかれた、やさしいかがやきがあります。
 ときに悔恨や苦渋もみせてはいますが、生きることに肯定的です。南畝の人気が衰えないゆえんです。

 笹に雀を描いた絵に讃した歌があります。「ささ」と酒をかけた、心やさしい歌です。

      雀どのおやどはどこかしらねども ちょっちょと御座れさゝの相手に

 いまひとつ、人生の必需品についての歌を。

      世をすてゝ山にいるとも味噌醤油 さけの通ひぢなくてかなはじ

 晩年になっても交遊範囲はひろく、風流風雅を愛する大名、旗本たちや、画家では酒井抱一、谷文晁、
漢詩人では亀田鵬斎、大窪詩仏、菊池五山、市河寛斎、市河米庵、柏木如亭、蔵書家読書人として屋代弘賢、高田与清、作者の山東京伝、京山、狂歌師の狂歌堂真顔、六樹園飯盛などなど。
 南畝は江戸の文人の筆頭とみなされていました。

 つぎの歌は辞世ではありませんが、僕がすきなものです。

      てる月のかゞみをぬいて樽枕 雪もこんこん花もさけさけ

 文政6(1823)年4月、南畝は75歳で死去しました。卒中、脳溢血でした。墓は文京区白山の本念寺にあります。墓は僕の背丈よりも高く、一抱えでも余る大きさです。
 
 正面に「南畝大田先生之墓」の8文字が刻してあるばかりで、あとはのっぺらぼうです。墓石は大坂の知人が送ってくれたのですが、墓碑銘の彫り代を遺族が工面できず、そんな異様な墓石のすがたになりました。 
 南畝の死後、すぐに遺族の困窮がはじまったことがわかります。

 数年後には南畝の蔵書印のついた本が古書店にながれはじめるし、さらに数年後には駿河台の家は売られ、遺族はもとの御徒組屋敷に引っ越したもようです。

 役所づとめのうっとうしい閉塞した世界で、家族のために働きづめ。しかし役所を一歩外に出ると、酒と詩歌を愛する文人、風流人たちを友として、漢詩狂歌の世界にこころをときはなち、精神の自由世界に遊ぶ。
 
 芭蕉が旅の詩人とすれば、南畝は市井、俗の中の風雅の文人です。日々の暮らしの中に、ちいさな喜びを発見し、積み上げて生きた、人生の達人です。
 
 ただ狂歌ばかりではなく、そうした南畝のいきざまをトータルしたものが、彼の人気のゆえんだったのです。

      世の中は色と酒とが敵なり どふぞ敵にめぐりあいたい

      世の中はいつも月夜に米のめし さてまた申し金のほしさよ

      いたずらにすぐる月日も面白し 花みてばかりくらされぬ世は

      ほととぎす啼きつるかたみ初松魚(はつがつお)春と夏との入相の鐘