(1)藤沢周平さんの家

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 人気作家の藤沢周平さんが享年69歳で亡くなったのが平成9年1月だったから、気がつくとあれからもう10年が過ぎたことになります。

 藤沢さんが、僕とおなじ練馬区大泉学園町の住人だということは週刊誌のグラビア記事などで知っていました。ただ同じ町とはいっても8丁目まであって広いのです。

 作家の死亡記事が新聞に出て何日かして、僕の妻が、
「お隣の奥さんが、藤沢さんのお宅へお悔やみにいらしたそうですよ」
 と、聞き捨てならないことをいいました。
「どうしてお隣の奥さんが藤沢さんのところへ?どういう知り合いだったんだ」
 お隣は、ある婦人の会が運営する無農薬野菜の共同購入世話人をしており、わが家も会員になっているのですが、藤沢家でもそれを利用していた関係で、奥さんはときおり藤沢家を訪れていたということでした。
「おまえも、そのことを知ってたの?」
「いいえ、今日奥さんから聞いたところですよ」
藤沢周平さんの家はどこか、おまえ知ってるのか」
「一本北側の道路沿いに、民謡歌手の原田直之さんのお宅があるでしょう。あの裏ですって。とても気さくな奥様ですって。年頃のお嬢さんと3人暮らしだったそうですよ」
 
 わが家から、150メートルほどのところではないか。そんな近くに、あの藤沢周平さんが住んでいたのか。驚くとともに、口惜しい思いがしたことです。

 僕たちが大泉学園に越してきたのは、その20数年前で、それまでは同じ私鉄沿線の東久留米にいたのですが、藤沢さんはその町にも住んでいたことがあった。
 藤沢さんの書斎を撮った写真を雑誌で見たことがあって、そこに黒目川が写っており、わが家もその川から近かった。
 東久留米からいまの場所へ、作家が移ったところへ、後を追うようにして、僕たちも移ってきたことになる。

 時代小説作家の藤沢さんにはめずらしい『早春』という現代小説や、エッセーなどには、大泉学園の風景の描写があります。藤沢さんが、たまに遊びに行った駅前の碁会所のことも出てきます。
 いつか、バス停近くで、
「あっ、藤沢周平だ」
 と、思ってすれ違った人がいた。
 あれは碁会所帰りの藤沢さんだったかもしれない。近所に住むファンとして、声をかけていたらどうだったろうか。生前に家を訪ねて行っていたらどうだったろうか、とやはり口惜しい思いがするのでした。

 ある晩、外出をした帰り道、僕は妻と2人で、藤沢家を見に行きました。原田直之氏の大きな家の前までくると、三味線と尺八の音色がしていました。
 その横道をはいると2軒の家があり、手前がめざす家でした。

 ありふれた木造の2階家で、わが家と大きさもかわりません。
 門柱にはめこまれた標札には、本名の小菅ではなく、〈藤沢〉と彫られていました。家の中に明かりはなく、人気もなさそうでした。
 

 つい最近も、僕は原田家のおもてを歩いてみました。民謡教室らしい太鼓の音が鳴っていました。

 元の藤沢さんの家のあとには新しい家が建っていました。

 もう、藤沢さんはいないのです。


 写真は藤沢周平さんの家があった袋小路の風景。(わくわく亭が撮影したもの。平成19年7月)