小津安二郎監督のやがてかなしき後ろ影(2)

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 小津監督と作家志賀直哉との親交は、彼が46歳(昭和24年)の頃からはじまったようです。

 さらに、志賀直哉の紹介によって鎌倉在住の作家たち、里見弴、川端康成大佛次郎小林秀雄らとの交流へとひろがります。映画『宗方姉妹』は大佛の原作ですし、『彼岸花』『秋日和』は里見弴が原作です。

 49歳(昭和27年)には念願の鎌倉住人となりました。
 そして、6月から『東京物語』の撮影が開始されます。主人公の老夫婦が住んでいる場所として、小津監督は、志賀直哉の『暗夜行路』が舞台としていた尾道を選んだのでした。

 映画は翌年公開上映されると、大好評をもってむかえられ、芸術祭文部大臣賞の受賞もし、興行的にも大成功をおさめました。松竹は破格の高額な手当、監督料をもって小津さんとの専属契約をしました。

 映画監督、文化人として、小津安二郎はその絶頂期をむかえつつありました。

 彼を慕う俳優たち、女優たち、映画人たちは、いつも彼の鎌倉の家に親しく出入りしているし、里見弴らとの家族ぐるみの親交はますます深まっていきました。

 それでいて、小津さんの日記には、ときどき深い寂寥が影をおとしています。

 俳優や女優たちとの華やいだ時間がすぎたあと、里見弴たちとの陽気でにぎやか宴が終わったあとで、ひっそりと深夜、Sという女性にたびたび電話しています。
 小津さんの心の底に居座っている孤独感、寂寥感が、彼女を呼び寄せているのです。
 S女は大船撮影所の楽団に所属するアコーディオン奏者だったらしいですね。

 日記に、
「S女くる。雑談。S女泣く……」とか、
「早朝、S女から電話にて、午後来るよし。4時ころ一人来る。酒をのむ。面倒になり他所へ出かけず家で夕めしをすます。10時ころS女帰る。駅まで送る」
 とみえています。

 女は、小津さんの方から声をかけられて、愛への期待を胸に彼のもとにやってきたと想像されます。ですが、相手は女が来たことで、心さびしい思いが癒されて、空虚な時間が埋められれば、それでいいらしいとわかったなら、彼女は泣くはずです。
 
 小津さんは俳優の佐田啓二を息子のように可愛がったそうですし、彼が結婚して、こどもたちが生まれると、かれらを自分の孫たちのように可愛がったことは、よく知られています。その関係は、また小津さんが佐田啓二ファミリーに甘え込んでいる図ともいえます。
 逢いたくなったら、相手のつごうには無頓着で、何時であろうと、車をとばしてすぐ来て欲しい、と無理強いもする。佐田さんたちが小津さんに抱く愛情に、こどものように甘えたようです。
 
 里見弴は、そうして甘える小津さんをこよなく愛したようですね。小津さんは酒が好きで、しかも酒豪でした。里見邸の夜の酒宴が、ほとんどの客が帰った後でも終わらないのは、小津さんの酒がおしまいにならないからでした。朝の4時、5時になり、酔いつぶれて、座ったままで眠ってしまうまで、里見夫妻は付き合っていたそうです。
 
 小津さんの死後、あるインタビューの中で、作家の今日出海(こんひでみ)さんが、小津さんの酒について語っています。
「僕がくたびれてきたって放さない、4時までは。4時になると、『うちへ帰るよ』って言わないで、『おふくろんところへ行くよ』って言うんだよ。あいつはやっぱり一つの淋しさを持っている人間だと僕は思う。その孤独っていうものが、彼の作品にずいぶん出てる。どんなに明るくしてもねぇ」


 小津安二郎という人の愛とは、自分の孤独を抱き留めて、癒してくれるひとへの甘えの感情だったかもしれないな。
 彼はバランス感覚がよくて、目前の恋にわれを忘れてしまうというタイプではなさそうです。破滅型作家の対極にいます。それでいながら、いや、それがために、つねに淋しさにつきまとわれている。

 こうもいえるかもしれません。
 そういうタイプのひとは、ひとへの愛に溺れられない。ひとより、自分を愛してしまう。当然、孤独になるし、愛と甘えを混同してしまう、と。

 そんなタイプのひとが、無条件でうけいれている愛は、母親からの、そして母親への愛ということになりますね。小津さんは、結局、お母さんと二人きりで鎌倉に暮らしたのでした。

           短夜は枕に近く 時鳥(ほととぎす) 
           われ老いぬれば 心たのしも

           時鳥鳴きつる辺の 囲炉裏辺に
           心たのしも 酒汲むわれは

 昭和34年56歳の歌です。小津さんの死まで、あと4年しかありません。

               (3)へつづく