小津安二郎監督のやがてかなしき後ろ影 (1)

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 小津安二郎さんといえば、いまや映画『東京物語』で世界的な名声をほしいままにする名匠監督です。
 最近では,彼についての数々の評伝に加えて、日記、有名作家たちとの交友記なども出版されて、人気は衰えることを知りません。

 尾道出身の僕わくわく亭としましては、『東京物語』の冒頭とラストシーンに尾道が選ばれたことで、
尾道の名前が日本中のみならず、海外にまでひろく知られることになったわけで、小津監督に大恩を感じています。

 ところで、僕はかなり以前から、小津さんがたわむれに詠んだらしい歌や小唄や“老童謡”と称した詩に心ひかれるものがありました。

 端正で清潔で、様式的な美しさがあると評される小津映画にあっては、ひっそりと裏面にひそんでいる抜きがたい孤独感が、そうした詩歌には素直に、あらわになっています。
 ここで、いくつかピックアップして、あらためて小津さんの芸術家らしい孤独感に触れてみたいとおもいます。

 小津監督について少しでも知っているファンは、彼が生涯独身だったことを不思議に感じていたことでしょう。原節子さんをはじめとした、たくさんの華麗な美人女優にかこまれ、しかもとびぬけた才能にめぐまれた、ダンディーな監督は、彼女たちから尊敬と信頼をよせられていたのですから、女優との結婚や、結婚にこだわらずとも、色恋沙汰のひとつくらいあってもよかろうと思うのですが、彼と女優さんたちとの関係では、“端正”さと“清潔”さとが伝わってくるばかりです。
 愛を感じたとしても、プラトニックなもので、お互いが傷つくことのないものでした。

          明けそめし鐘かぞえつつ二人かな

          ひとり居は君が忘れし舞扇

          口づけをうけつつ知るや春の雨

          爪剪るや畳にこぼる髪の丈

 小津さんの31(昭和10年)から34歳(同13年)の日記に書かれた俳句。小田原の芸者森栄(もりさかえ)さんと逢瀬をかさねていたころのものです。なまめかしさはあるものの、芸者遊びの域を出るものではなさそうです。つまり、小津さんは心理的な安全地帯に座っており、自分の存在が脅かされるような、強い愛は詠われていないのです。

 そして、中国戦線への出征と帰還。戦地で愛読した書が志賀直哉の『暗夜行路』でした。帰国してマスコミに対して、小津さんは「僕はもう懐疑的なものは撮りたくない。戦争に行って、肯定的精神というものを持つようになった。そこに存在するものは、それでよし、と叫びたい気持ちだ」と心境を語っています。その姿勢はその後の小津作品のすべてに反映されているといえるのではないでしょうか。

 後年若手の映画作家たちから、「形式主義で、小ブルジョア的、時代を遊離した低徊趣味」と批判を浴びたことがありましたが、それも日本の中流社会にみられる家族、夫婦、親子関係の現実を映画に撮って、「そこに存在するものは、それでよし」という小津監督の肯定的な姿勢が、社会変革を嫌う保守性として攻撃されたものでしょう。

 『お茶漬の味』『東京物語』『彼岸花』『秋刀魚の味』と代表作を並べてみて、共通した方向性が見えますね。哀しみや、寂しさの余情はあるとしても、登場人物たちに決定的な破綻、悲劇はおとずれない。
基本的には人間の生き様を肯定するまなざしがありますね。

 「僕は懐疑的なものは撮りたくない」といった小津さんを、別な言い方をすると、「傷つけあい、破綻に向かう人々の現実」は撮りたくない、といったとも解釈できそうです。

 それは、小津さんにプラトニックな恋の噂はされても、おたがいを傷つけずにはおかない、どろどろの苦悶する愛の噂がなかったことと、どこか通ずるものがありそうです。

 どんな恋愛も、始まってしまえば、自分を心理的な安全地帯に保つことはできないし、精神的な実存をあらわにさらけだすことになってしまいます。「懐疑的」になる場面もさけることはできません。

 おしゃれで、ダンディーな、そして大変な照れ屋だった小津さんには、不格好な泥臭い言葉で女をくどくことは、苦手だったでしょう。
 本気の恋愛となると、男は不格好で泥臭くなってしまうものではありませんか。それができなければ、宿に呼び寄せる芸者との疑似恋愛で、寂しさをまぎらわすしか手がありません。小津さんは、女との愛に臆病だったのではないでしょうか。

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