満鉄ポスター展・真山孝治

「満鉄ポスター展」に出品された16点の中に、真山孝治の「民族衣装の女性」がある。

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真山孝治(1882~1981)岩手県室根生まれの洋画家である。

明治15年の生まれであるから、伊藤順三より8年の先輩である。

1897年東京美術学校日本画科入学を志し上京するが、洋画の展覧会で油彩に魅せられ、

白馬会研究所に入所する。黒田清輝、岡田三郎助、長原孝太郎、山本森之助らの教えを受け、

1908年、白馬会展第二回展に初出品初入選。第三回展では褒賞を得て宮内省買い上げとなり、

第四回展では3等賞を受賞する。風景画を得意として、(山の画家)として知られる。

1921年、満鉄の招きにより満州に渡る。

伊藤順三とほぼ同時代に満鉄でポスターを制作していたことになる。

しかし、1931年には満鉄を辞すと、単身渡仏し、4年余りをパリで過ごす。

1935年帰国。


満州時代の真山孝治の事跡をしらべてみて、面白いのは当時の作家達との交流である。

一人は田山花袋

大正12年、田山花袋は朝鮮、満州を一ヶ月近く旅行して、「満鮮の行楽」という

紀行文を書いているが、彼の旅行中同行した人物(洋画家のM君)として登場するのが

真山孝治である。南満州鉄道随行員として花袋に付けてくれたのである。

「満鮮の行楽」が出版されると本の扉に《…真山孝治氏にも深く謝意を表したい》と記されている。




いま一人は里見 弴(さとみ とん)である。

里見は昭和4年(1929)、満鉄の招きで志賀直哉とともに満州へ旅行している。

この旅行中にも真山孝治が随行しているのである。

里見弴年譜から引用する。

  12月25日、大連着。志賀は支那服を作る。大和ホテル。

         武者小路から紹介された絵画収集家の永原織治を訪ねる。

     26日、高崎弓彦、真山孝治来訪。昼過ぎ、自動車で星ヶ浦、ついで旅順へ行き

         大連へ帰り高崎宅で食事、ホテルへ帰る。

     27日、大連市内油工場見物。

     28日、9時発汽車で出発、真山、菊竹同行。昼過ぎ熊嶽城に着、ホテル泊。

         菊竹と別れる。


この旅行以来、里見と真山孝治の親交は続くことになる。

昭和11年の年譜には、その前年パリ留学から帰国した真山が里見家に長期滞在したことが

記されている。


  
   昭和11年1936

   この年、鎌倉市小町に転居。

   長野県上田から、窪田卯女が『金の鍵の匣』のヒロインに憧れて上京、半年ほど手伝いをする。

   この頃番町の隣に洋一と鉞郎が住む。

   真山孝治が大連からやってきて七十五日滞在。


真山は「大連からやってきて」とあるが、それが正しければ、真山はパリから帰国後、一時

満州にいたのかも知れないが、あるいは年譜作者が、フランスからの帰国を満州からの帰国と

間違えて書いたものかも知れない。

真山のその後の人生は、

1935年フランスから帰国。

1936年、文展鑑査展に出品。

      新文展第一回展から第三回展まで無鑑査出品。

      その後中央への出品を断つ。

1938年、宮城県多賀城市に移住し、後進の指導にあたる。

1981年、99歳で没す。