小津安二郎監督のやがてかなしき後ろ影(3)

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 都築政昭さんの本『小津安二郎日記』(講談社)から、僕が好きな小津さんの歌や詩を、ほんのちょっと紹介しようと書き始めたところが、(1)(2)でも終わらず、予定外に(3)にまで延びてしまいました。

 同書から写真を2枚借用させていただきます。(2)の写真は里見邸で酔いつぶれた小津さんです。
 上掲の写真は昭和30年1月に鎌倉の小津邸で撮られたものです。
 その日の来客は、久保田万太郎夫人、里見弴夫妻、松竹俳優の高橋貞二、小津映画の盟友である脚本家の野田高悟とその夫人、そして里見弴の4男で松竹で「小津組」のプロヂューサーをしていた山内静夫の諸氏でした。

 酒宴の馳走にと、小津さんは母のあさゑさんと「とらとら」を踊った。これはそのときの写真です。
 たがいに和唐内、おばあさん、虎の姿に変じて勝敗を競う、藤八拳のルールに似た、陽気な座敷あそびです。

 “トラ、トラ、トーラ、トラ。みなさま覗いてごろうじませ。金の鉢巻だすきに和唐内が、えんやらやっと捕らえし獣は、トラ、トラ、トーラ、トラ……”と歌い踊りながら、屏風のかげから姿をだして、勝負するのです。
 なんという無邪気な母と子でしょうか。このとき小津さんは52歳、母は80歳でした。とても佳い写真です。
 
 お客を出迎えるとき、母はこんな粋なジョークで挨拶しました。
「せっかくおいでいただきながら、今日もあいにく安二郎の家内が留守でございましてね、どうぞこんな婆さんが相手で、勘弁してくださいね」と。

 皮肉なことを言わせてもらうと、このぴたりと呼吸の合った母と息子の真ん中に、どんな女性が割りこんでいって、「トラ、トラ、トーラ」の三角関係を円満に形成できたでしょうか。この母と小津さんを見たなら、彼女たちは小津さんとの家庭生活の夢はあきらめたことでしょう。

 86歳の母の訃報を蓼科で聞いたときのようすは、「水道の蛇口から、じゃあじゃあと水を出して、小津さんは、幾度も幾度も顔を洗った。そして洗っても、洗っても、あふれてくる涙をとめようもなく、厳寒の夕闇の中で立ちつくして」いたそうです。

 それからの小津さんは、酒浸りの日々だったそうで、その酒のために死んだのです。

 その年の12月、59歳になった小津さんは、亡母の納骨のため高野山にのぼります。そのときにつくった『高野行』という詩がありますが、僕わくわく亭は、それが好きなのです。小津さんは照れて、詩を
“老童謡”とよんでいますが、それを、すこし長いものですが、(長いので改行を変えてありますが)、紹介させてください。


                             「高野行」
                          
 ばばあの骨を捨てばやと/高野の山に来てみれば/折からちらちら風花が/杉の並木のてっぺんの/青い空から降ってくる
太政大臣関白の/苔のむしたる墓石に/斜にさしこむ夕日影/貧女の一燈またたいて/去年に焼けたる奥の院
 梢にのこるもみじ葉に/たゆとう香華の煙にも/石童丸じゃないけれど/あわれはかない世の常の/うたかたに似た人の身を 
 うわのうつつに感じつつ/今夜の宿の京四条/顔見世月の鯛かぶら/早く食いたや呑みたやと/高野の山を下りけり
 ちらほら灯る僧院の/夕闇迫る須弥壇に/置いてけぼりの小さな壺/ばばあの骨も寒かろう

 
 翌昭和38年3月、60歳になる小津さんは蓼科で、こんな歌を日記に書きました。

     こよいかも われみまかれば このゆきの しろきをまきて そうろうべしや

 死の予感があります。はたして、四月国立ガンセンターに入院となった。

 日記帳に残された、さいごの歌のうちの一首。

     鎌倉の梅咲きにけりおちこちに ははみまかりてひととせのすぐ


 日記から、晩年の小津さんの愛読書が永井荷風の『荷風日乘』だったことがわかります。荷風には結婚の経験がありますが、それにこりて、中年からのちは最期まで独り暮らしをしました。小津さんは、老いた母のいなくなった後の自分の生活を、荷風日記の中に見ていたかも知れません。
 荷風も母親を愛していましたが、家督相続のときに仲違いした弟のもとに身を寄せたことで、母を恨み、その葬儀にも欠席しています。
 母とさいごまで暮らした小津さんは、その点が違います。

 さて、われわれ日本人は、なぜこんなにも、小津安二郎の映画がすきなのでしょうね。

 はげしく情熱的な男女の愛情表現はないし、もちろん官能的な描写はない。愛のために心をえぐるような苦悶も憎悪もない。愛に溺れるものもなければ、魅力的な肉体をもつ愛情を撮ることもない。
 
 われわれの、くりかえし訪れる平凡な日常を、ささやかな喜びと、しかたのない悲しみを、平面的に、絵画的な空間に、端正にしずかに、軽快な音楽を添えながら、陽の当たる風景を背景にして写し撮っていった、小津映画。
 それは、人間の営みを、「懐疑的に」ならず、どこまでも、肯定的に受けとめようとするから、わたしたちは彼の映画が好きなのです。

 名作といわれる恋愛映画は数々ありますが、「東京物語」はそれらをしのいで支持されます。

 「東京物語」のラストで、老妻の死と、残された老いた夫の姿が映されて、人の世の無常を語ります。
そのとき無常というものを、われわれ日本人は、しずかにうけいれています。

 そして、小学生の教室の声がながれ、またおとずれる日常のいとなみへと、わたしたちを送り出していきます。
 小津さんが戦地から帰還したとき、「そこに存在するものは、それでよしっ、と腹の底で叫びたい気持ち」で映画を撮ると宣言しましたが、まさしく、生の営みから、死と無常、そしてつぎの日常まで、そこに存在するものは、それでよし、として肯定するもの。それが、わたしたちが小津さんの映画が好きなわけなのではないでしょうか。