尾道の映画館とその盛衰(5)

わくわく亭の記憶に照らしてみて、尾道千日前に日活と東宝の上映館があったはずなのだが。

昭和33年の雑誌「伸びゆく観光尾道」に掲載された千日前映画街による広告には、興栄座が

「日活・東宝封切館」となっている。たしかに、それまで出遅れていた日活が、石原裕次郎

出現によって一躍大人気の映画会社になったわけだが、それまでは、一つの映画館が東宝映画を主

にして日活映画も上映していたような気もする。

だが裕次郎の「嵐を呼ぶ男」(昭和32年)を境に、日活映画専門の映画館が出来たのではなかった

ろうか。東宝森繁久弥の社員・社長シリーズガヒットを続けていた。


山陽日日新聞の2012年2月1日の記事を見つけた。映画の看板を描いていた絵師の映画全盛期の

思い出を取材した記事であるが、それによると、昭和30年代の尾道の映画館は、駅前松竹、

太陽館、尾道セントラル劇場、そして千日前に玉栄館(東映)、スバル座(大映)、東宝、日活の4館

があったと書いてある。

すると、どういうことになるのか。

昭和33年に興栄座が東宝、日活2系列の封切館だったものが、後に東宝上映館と日活上映館の

2館になったということか。


わくわく亭の、(あまり頼りにはならない)記憶の中の,千日前の図は次のようになる。

手で描いてみた。

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はたして、これが正しい記憶かどうか、資料をお持ちの方にご教示いただきたい。


それから尾道の映画館はどうなっていったのか。


昭和37年の日本出版社発行「62 戸別記入住宅地図 尾道市」で追跡しよう。

まずは太陽館。

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「サンバストアー」に転業している。敷地の一部に「カレー店太陽館」があって、歴史のある

名前だけは残されている。

偕楽座から尾道セントラル劇場になった映画館はどうなったろう。

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久保2丁目にある尾道共同福祉施設尾道市勤労会館が立つ場所が、そこである。


では、昭和37年の千日前はどう変わったろうか。

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映画館は3館ある。尾道日活、東映、千日前松竹がそれである。

東宝の名前はなくなっているが、尾道日活で東宝作品も上映していたのだろうか。

東映はスバル座(大映)があった場所に移っている。大映封切り館は無くなったと言うことだろう。

あらたに千日前松竹がある。玉栄館(東映)があった場所ではなかろうか。

松竹が尾道に系列館を2館抱えるひつようはないはずで、このとき既に駅前にあった尾道松竹は

松竹の直営館ではなくなっていることになるのか。

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