尾道の映画館とその盛衰(1)

昭和30年前後、最盛期を迎えていた映画館が、それから数年後には、

つぎからつぎと姿を消していった。

尾道には現在駅前で、かろうじて映画上映館の灯を消さないように頑張っている

NPO法人「シネマ尾道」が一館あるのみとなった。

あの当時の映画館はどこがどんな映画を上映していたろうか。

わくわく亭の記憶とどう違っているのか。その後はどうなって行ったのだろうか。

それを調べるために、先週尾道で、古書店に行ったり、図書館で資料を探したり、映画館の

あった場所を見てきたりした。


その結果、おおよそのことは分かった気がしている。


ある資料によると、戦争が終わった翌年の昭和21(1946)年、尾道市内にあった映画館は

4館だったそうである。

太陽館、玉栄館、尾道セントラル劇場、そして尾道劇場。

太陽館は防地口に、玉栄館は久保一丁目の後の千日前に、尾道セントラルは久保二丁目に、

尾道劇場は西御所町に、それぞれ戦前からあった。

映画館とはいっても、芝居や、歌謡曲浪曲の興行が掛かるなど、いわゆる演芸館の性格が

あった。

なかでも尾道セントラルは、江戸時代から芝居小屋として出発しており、そこは劇場の「偕楽座」

があった場所である。偕楽座については書庫の『志賀直哉尾道遊廓』のなかでかなり詳しく書いた。

写真は、それまでの木造の偕楽座が火災で焼失したため、大正14年モダンな劇場に再建された

時のもので、横に流れているのは防地川である。

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尾道劇場に、わくわく亭は行った記憶がない。昭和30年代の後半頃には、すでに廃業したもよう。



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昭和21年正月、玉栄館は松竹映画「愛染かつら」を上映した。

「愛染かつら」は昭和13年に松竹が、田中絹代上原謙の主演で制作、公開して歴史的な大ヒットを

した恋愛映画であるが、これを玉栄館は再上映した。またしても大人気となる。戦時下の苦難から

生き延びた尾道市民は、花も嵐も踏み越えて、行くが男の生きる道、泣いてくれるなほろほろ鳥よ」

の主題歌「旅の夜風」とともに哀切な男女のすれ違いの運命に、自分たちの運命を重ね合わせながら

涙したのである。

入場者は長い列をつくった。千日前の玉栄館から列は延びて、水尾町通りから左に折れると

啓文社書店のまえあたりに達したというから、ものすごい。

戦争が終わったという開放感と娯楽への爆発的な欲求が、市民を映画館へと集める求心力となった。


昭和21年に尾道で上映された映画には、つぎのような作品があった。

出典は山陽日日新聞が発行した『戦後の足跡』。

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5月  太陽館――田中重雄監督「彼と彼女は行く」昭和21年製作(大映配給)

    太陽館――今井正監督「民衆の敵」昭和21年(東宝製作、配給)

6月  太陽館――千葉泰樹監督「或る夜の接吻」昭和21製作(大映配給)

    太陽館――山本嘉次郎 黒澤明 関川秀雄共同監督「明日を創る人々」(東宝製作、配給)

    太陽館――アメリカ映画「チャップリンの黄金狂時代」

7月  玉栄館――フランス映画「望郷」主演ジャン‐ギャバン(1937年製作公開)

    太陽館――アメリカ映画「春の序曲」(1943年製作)

10月 太陽館――フランス映画「商船テナシティ」(1934年公開。J・デュヴィヴィエ監督)

11月 東宝――フランス映画「舞踏会の手帳」(1937年製作。J・デュヴィヴィエ監督)

    東宝――黒沢明監督「わが青春に悔いなし」(昭和21年東宝製作)

12月 玉栄館――ソヴィエト映画「スポーツ・パレード」(1945年ソ連製作)

    東宝――アメリカ映画「カサブランカ」(1942年製作公開)

    東宝――アメリカ映画「ターザンの猛襲」(1939年製作)ジョニー・ワイズミュラー主演。



戦後の翌年のことである。日本映画の製作本数はまだきわめて少なかったし、外国映画の輸入本数も

限られていたから、映画館は上映作品を入手することに苦労したと思われる。

はじめに昭和21年、尾道市内には映画館は4館あったと書いたが、このリストには、そのうちの

太陽館と玉栄館の名前しかない。替わって「東宝」の名がある。

昭和30年代に東宝映画を封切り上映していたのは千日前にあった「興栄座」であるから、そこの

ことだろう。


となると、昭和21年の秋には、興栄座が東宝映画の上映館となって、太陽館は洋画専門へと

変化していったのではないか。

玉栄館は上映フィルムの獲得に苦戦している。人気のなかったソヴィエト製作のドキュメント映画

をもってきて、入場料は50円の安値にしている。原名『全ソヴィエット体育行進』という一種の

プロパガンダ映像である。玉栄館は東映映画を上映するようになるまでは苦労したのだろう。