富岡永洗

イメージ 1

イメージ 2


富岡永洗(1864~1905)という画家については知識がなかった。

わくわく亭の仕事場は東京の京橋2丁目ですが、ちかごろ銀座東や築地あたりを昼間散歩していて、
歌舞伎(歌舞伎座がちかいせいで)関連本とか美術雑誌をたくさん置いている古書店をのぞいています。

発行から10年くらい古くなると、美術雑誌も一冊が300円の値段で山積みですから、10年が20年
であろうと気にしない僕のような者にとって、掘り出し物がいっぱいあるのです。

昨日UPした平田郷陽の「生人形」もそうした古雑誌からいただいた写真です。

僕は鏑木清方について『鏑木清方の「築地川」巡り』という「書庫」を開設していますが、
この富岡永洗は幕末の生まれで明治38年歿の絵師だから、清方が修業時代に活躍していた
大先輩にあたります。

鏑木清方の代表的美人画「築地明石町」をごらんください。→築地明石町

清方は、この永洗の美人画に憬れていたようです。

清方の随筆に、永洗の美人画について書いた文章があるので引用します。

あの時分に(明治30年~40年にかけて雑誌の木版口絵が、贅をつくし精巧なものが全盛
だったころ)、もし口絵の人気投票があったとしたら、その高点を得るものは、恐らく
富岡永洗であったろう。
…永洗の美人画の有つ艶色は、官能的ではあっても卑俗にならないのが、この時代の好尚に
適ったのである。

上の絵は明治33年に発表された『新内』という絹本の絵で、雑誌口絵ではないのですが、
これについて清方が,

燈下の朱羅宇の煙管を突いて、物思う娼婦を画いて好評だった。

というのだから、吉原あたりの遊女か。衣装といい、道具といい豪奢なものをつかっており、
格の高い遊女にちがいない。題が『新内』というからには、遊里を流してゆく新内の曲を聞きながら、
物思いにふける様子なのだろう。

清方にも遊女や芸者を画いた美人画は多いが、永洗の美人画は、清方にとって、手本とすべき明治の理想の美人画だったのではあるまいか。

二枚目は、明治30年ころの作品で、春画です。
一部をカットして、ごらんにいれます。錦絵です。江戸の歌麿北斎春画とはすこし趣がちがい、人物の線がやわらかく、表情も自然なかんじがします。

このあたりを、清方は「官能的ではあっても、卑俗にならない」と評しているのでしょう。