築地川(8)築地居留地

イメージ 1

これは鏑木清方の「明石町」です。ガス灯の下で遊ぶのは外国人の子供たちです。
東京の中にあった異国という画題です。

清方の画集「築地川」を巡る春の散策はこれでいったん終了にしますが、さいごに、明石町の居留地の地図をもう一度UPします。

イメージ 2

外人居留地は上辺の日の丸が揚がっている一画です。

その右側にある絵図は「築地ホテル館」です。築地の新名所といわれた偉容を誇った建物でしたが、
明治5年の銀座大火で消失してしまいました。

その下に見えるのは築地本願寺で、現在も同じ場所にあります。

さて、はじめてこの絵図を見たとき、わくわく亭の視線が留まったのは、左下に「新嶋原仲之町」と記された遊郭らしきものの一画です。

これは一体何なんだ!

その場所は現在の新富町1丁目と2丁目をカバーした一帯です。明治5年には、この地に浅草から守田座が移転してきて、のちの新富座を建てているはずではないか。

またしても、わくわく亭の歴史探偵意識が顔を出しました。

調査の結果はつぎの通りです。

1)明治元年に築地居留地の開設が決まると、浅草新吉原の楼主は、
  遊郭をこしらえて商売しようと画策  します。
  年5万両という運上金という条件付きで明治元年8月に許可され、
  「新嶋原遊郭」をこしらえます。
  遊女が300人ほどいたという古老の話を読みました。
  新富町一帯を吉原とおなじように濠を廻らして、
  わざわざ居留地側に向かって大門をつくります。

2)外人客をあてこんだもくろみでしたが、まんまと失敗します。
  横浜の居留地にいた商人たちが築地に移転せず、来たのはキリスト教会や、
ミッションスクールの関係者が多く、遊郭で遊女を相手に遊ぶ客ではなかったのでした。
  そのため、商売は失敗に終わり、運上金が払えないので、
新政府から明治4年に取り払いを命じられてしまいます。

3)そこへ、明治5年の銀座大火があり、残った建物は焼失します。
  そのあとに、新富座が建設されるというはこびになるのです。

新嶋原遊郭と築地ホテル館が姿を消したあと、居留地はエキゾチックな小外国となりました。

日曜日、教会からピアノの音、賛美歌のコーラスが流れ、トップにUPしたような金髪の少女たちが遊ぶ光景を眼にする特別な場所なのでした。

どこかに居留地遊郭の風俗画がないかとさがし、幸運にもみつけることができました。

わずか4年の短命だった築地新嶋原の浮世絵(国輝筆)をUPします。

イメージ 3