築地川(6)「伊達家水門」

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これは鏑木清方の画集『築地川』におさめられた「伊達家水門」という絵です。

それにつけられた清方の詞書を引用します。
伊予、宇和島、伊達家の広い屋敷。潮入の池があって、その水門際に小橋が架かる。
緑陰こまやかなところ、夏は行人の、憩いの場所になっていた。

この場所は、何処だったのだろうか。
わくわく亭は歴史探偵の顔になっています。

人物は左から、風鈴売り、甘酒売り、金魚売りの男と金魚をのぞく少年、そして堀割に釣り糸をたれる男。

絵の奥に見えているのが水門の柵である。


「築地川(3)」で書いたように清方は生まれは神田ですが、1歳には京橋に転居し、さらに築地1丁目に転居します。7歳に木挽町1丁目に転居、そこで15歳まで生活します。

同じ画集に「作者」とした少年の絵があって、清方はこう言っています。

木挽町1丁目11番地に住居のあった頃、(略)築地川12景は、ことごとくそのとしごろの回顧に依る。

画かれた「少年」は年齢は10歳より下に見えることから、この「伊達家水門」で金魚をのぞいている向こう向きの少年もまた清方自身だと思われます。浴衣を着て帽子を被っています。どうだろう、10歳くらいだろうか。

10歳とすると、年代は明治21年のころとなります。

その推定から明治期の地図で、元お大名の「伊達家の広い屋敷」跡で、堀割から水を池にひきこむ水門があったというにふさわしい場所はないか、しかも清方の住まいであった「木挽町1丁目11番地」から遠くない所で。

木挽町1丁目は現在の銀座1丁目にあたる地区です。わくわく亭が所持する明治期の地図に、1丁目地区は明示されていますが11番という番地までは記入されていません。

しかも、広い大名の屋敷跡は、小さな住宅地に分割されており、それらしい場所はみつかりません。

それならば、と江戸切絵図でさがしてみます。

手掛かりは「伊予、宇和島、伊達家の広い屋敷」という記述です。

ありました!

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切絵図の中央にある「伊達若狭守」屋敷がそれでしょう。すぐ上の住所表記が「木挽町1丁目」となっています。
伊達若狭守は伊予宇和島藩支藩で、宇和島吉田を藩領とする大名です。この屋敷のことを「伊達家の広い屋敷」と呼んだのだと推測します。

その上方(方角は西)にある堀割は現在の昭和通りです。下側(東側)に接した堀割が築地川です。

現在の住所表示でいえば、中央区銀座1-22あたりで、もと「万安楼」という広い池のある庭園を持った割烹店があったあたりが、それではなかったかな、というのが歴史探偵わくわく亭の推量です。

少年清方がいつも遊んでいた堀端のなつかしい夏景色を回想して、この絵を63歳の鏑木清方が画いたものです。