築地川(5)「鉄砲洲」

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「鉄砲洲」です。
鏑木清方の詞書を引用します。
もと、京橋区本湊町、新湊町辺一帯に、昔砲術の演習場があったので、鉄砲洲の名があった。
本湊町と、船松町の堀割に渡した橋の名は小橋。
その対岸は佃島である。

夏の夕刻でしょう。縁台将棋をはじめた親父たちと、赤ん坊に乳をふくませているらしいおかみさん。かれらを潮の香がつつんでいます。ガス灯らしき照明に灯りがついたようです。
清方が「小橋」と呼ぶ木の橋の外側には、幾本もの帆柱が見えています。そこは(当時は)佃島を望む東京湾です。

さて、この「鉄砲洲」の絵を見て、わくわく亭が最初に考えたことは、
「この小橋はどこにあるのだろうか。あれば見てみたい。もうなくなった橋ならば、せめてその場所を特定したい」ということでした。

わずかな手掛かりから、目的のものを突き詰め、探索してゆく作業って、推理小説のような軽い興奮をおぼえるじゃないですか。

戸切絵図、明治時代の地図、大正末期の地図、昭和期の地図…そして現代の詳細な地図と調べました。
文字の小さい地図には倍率の大きい拡大鏡を使って解読しました。

見つけました。この絵に描かれた「小橋」を地図上で発見しました。

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これは明治初年に制作されたと推定される「築地・鉄砲洲・居留地」の地図です。

上の方向が東に当たりますが、東の端が海岸線です。そこに「本湊町」と「新湊町」の文字がみえます。
左の河口の角に赤い印があるのが鉄砲洲稲荷神社です。この一帯を「鉄砲洲」と呼ばれていました。
本湊町の南隣(地図上の右)に「船松町」の表示があります。

本湊町と船松町とを区切っている堀割に小さな橋が画かれています。

これが文字を拡大して見ると「こばし」となっています。

すなわち、この橋こそ鏑木清方が「鉄砲洲」の絵につけた詞書で《本湊町と、船松町の堀割に渡した橋の名は小橋。その対岸は佃島である。》と書いた、その橋だった。

地図の一番上辺に黒く汚れのように画かれている帯状のもの。それが《佃島》です。

さあ、お次は現地調査ということだ。

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結論を言いましょう。現在、この《小橋》は残っていません。そこはいま国道になっており、佃大橋が佃・月島地区へと隅田川を渡っています。

《小橋》のそばには「佃島渡し」がありました。明治9年に渡船は開業しますが昭和39年の佃大橋完成にともない、廃業します。
その記念の碑です。

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この碑のバックとなっているのが隅田川の壁です。そこに上がって現在の高層マンションが建ち並ぶ佃の写真をとりました。

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大橋を歩いて渡って、八重桜が満開の佃の町を一枚。《佃煮》の看板が軒先にみえます。

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折角鉄砲洲にきたのですから、鉄砲洲稲荷にもお詣りしてきました。
いま祭礼の準備がすすめられており、町内のあちこちにポスターが貼られ、寄合所のかこいが作られていました。

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