築地川(7)「築地明石町」

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鏑木清方ファンならば、この名作を知らない人はいません。
ファンならずとも、切手で見た記憶がある人も多いことでしょう。
昭和2年制作の絹本彩色です。

抜けるような白い肌、黒の羽織の袖を胸高に合わせて、振り返るおんなの姿態の、日本のおんなでなくては持ち合わせていない美しさを描いた傑作です。

清方49歳の作で、第8回帝展で帝国美術院賞を受賞しています。

サイズが174x74cmであり、画かれた女性の全身像はほぼt等身大といってもいいのでしょう。

わくわく亭のデジカメでは残念ながら全体図が撮れません。肩から上だけになりました。

……と、昨夜は全体図をあきらめていましたが、今朝になって、やはり明治の日本女性の美しさは、なで肩や、両袖のしぐさや、下駄履きの素足、内向きになったつま先、そうした姿の全体からかもし出されるものですから、あきらめず再挑戦しました。

それをUPします。

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清方には、よほどこの作品に深い思い入れがあったらしく、「紫陽花舎主人」の号で、この絵のために、詩のような雅文をこしらえています。


居留地なる異人館の垣に絡みて

まだ咲き誇る蕣(あさがほ)の いと小さき花をつけたり

築地の海は雲母色(うんもいろ)の靄 深く立ちこめて

朝冷えは膚に沁む

袖かき合わせて ふとかへり見る

いぎりす巻の女の瞳に

澄むや秋


いぎりす巻というのは、彼女の髪形のことでしょう。

「築地川春雨」の女も、この髪形をしていました。

                
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居留地なる異人館の垣に絡みて…」とある異人館とは何でしょうか。

この築地明石町は、神戸と横浜にあったような外国人を住まわせるための居留地があった場所なのです。

1869年といいますから開国したての日本が、首都東京にも外国人のための居留地をつくろうとして、
この明石町を選んだのです。

外国公館が立ち、キリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールがつくられ、慶應義塾、青山学院、立教学院明治学院などの発祥の地でもあります。

たくさんの外人の欧風な住宅が建ち並び、東京のなかでも、もっとも西洋文化の香りが高かった地域だったのです。

現在も、明石町を代表する建物としては、聖路加国際病院があります。

築地居留地は1899年、治外法権の撤廃によって廃止されるまで存続していたのです。

西洋文化に憬れた明治の若者たちにとって、築地明石町は、したがって特別な意味をもつ地名だったのです。

清方は、こう書いています。


そこにわれわれの日常生活とは違った異国人のそれ(建築や生活)が劇でもなく写真でもなく、

まのあたり一つの大きな街となって実在してゐるのに接することの驚異であった。


築地居留地の跡地に立てられた標識です。

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佃大橋から見た明石町の高層ビル。高級マンションやホテルになっています。

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