尾道駅前国際マーケット(1)
1965年(昭和40年)の作品である。
1965年の11月18日で、それに抵抗した住民たちの記録が『市民戦争』である。
このドキュメンタリーを紹介する前に、国際マーケットが形成されていった戦後からの歴史を
簡単にふりかえる。
戦後の食糧難、物資欠乏の時代である。主食の米の配給は遅配欠配が常で、配給米を待っていると
生きていけない状況だった。配給品を扱う一般の店には、店は開いていても、売っている生活物資
は皆無だった。市民はツテをたどって物々交換したり、闇で調達したりするが、絶対量が不足だから、
物価はうなぎ登りとなって、飢えと生活苦にあえいでいた。
そんな時に、駅前に出来た闇市にくれば、米があった。何から何まであった。
また、どんな品物でも、ここへ持ってくれば、買い手はいくらでもいて、すぐに現金になった。
もちろん、政府の物価統制に違反しているから、闇市は違法行為を行っていたことになるが、
強行できなかった。
から、その沿革を比較すると、非常によく似ていることに気付く。
神戸では、終戦の年の8月終わりごろ、三宮高架下に中国人が揚げ饅頭を1個5円で売りだしたのが 、 神戸におけるヤミ屋の一号とされています。その後、食べ物の立ち売り人の数が増え、握り飯、 蒸かし芋などが売られるようになり、やがて三宮高架下から神戸駅までの約2キロに及ぶ日本一 長い闇市が出現しました。その後市内には、あいついで14,5箇所の闇市ができました。 価格統制に違反していましたし、雑踏の中の喧嘩・すり・かっぱらいが多く、まるで治外法権地帯 でもありました。 昭和20年10月になり、兵庫軍政部は治安と不衛生を理由に闇市の撲滅を指令し、県警察部も 取締りを強化するようになりましたが、神戸の特殊事情として、ヤミ市商人に朝鮮人や中国人な どが多く、彼らは戦勝国民と自称し、警察の取締りを拒否したりしました。 昭和21年になりますと、大阪からの厳しい取り締まりからのヤミ商人が流れこむと同時に、 日本人や外国人はおのおのグループを作り、抗争したりするようになりました。 県会や大阪からも闇市撲滅の声が上がるようになりました。 21年7月GHQ(連合国軍総司令部)は、ヤミ市閉鎖命令を発し、内務省は7月27日全国 いっせいに取り締まり強化を通達し、兵庫県でも7月31日を「ヤミ市最後の日」として、 道路上の建物の撤去、露天禁止地域の設定、露天営業の許可など強力な取締りを行いました。
敗戦を起点に、それまでしいたげられてきた朝鮮人が母国独立の気運に乗じて、また一転して 戦勝国民に化した中華民国人、国内の戦災犠牲者、海外からの引き揚げ帰国者などで、行き場を 得られないものが自然と広場の一角や海岸通り一帯に「ひとときの安住地」をもとめて殺到、 たむろし、物資欠乏の折柄、粗末な材木を組み合わせてバラックをつくり、ヤミ市場兼簡易住宅を 形成していた。 (略) 折から、手薄の治安当局も手を出しかねる「無法地帯」になった。
闇市を立ち退かせることになった。
県や市の行政や警察の命令には従わない闇市の住民たちもGHQの命令には従ったのである。
神戸では三宮高架下から、神戸新聞社裏や三宮一丁目あたりへと移転して、ジャンジャン市場を
形成して、神戸名物になるが、昭和41年の都市計画により、消滅する。
尾道の場合は、駅前から立ち退きをさせるものの、行き場のないもののために暫定的に、昭和24年
3月31日までの期間、駅前桟橋の東側市道を占用させることを認めたのである。
そこが、『市民戦争』の舞台となったのである。
神戸の闇市の後身であるジャンジャン市場が、都市計画によって消滅したのが昭和41年(1966)
昭和40~41年頃に、全国各地で、多数の闇市の撤去がなされたらしいのだが、昭和43年に新しい
考えられる。