海岸マーケットの撤去(1)

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昭和37年発行の地図である。

グリーンのカラーで印をつけた場所が2つある。左側の「市営駅前駐車場」とある場所に

戦後駅前闇市の後身である「駅前国際マーケット」があった。それは昭和40年に市によって

強制撤去された。

ページ右側、海岸におよそ30戸がつらなっているのが「海岸商店街」とか「海岸マーケット」と

呼ばれた、これもまた戦後に形成された不法建築とされるバラックである。

海岸には尾道では「雁木」と呼ばれた石段があって、荷船が舳先をのりあげて、荷下ろしするのに

便利な船着き場になっている。その雁木が接する公道の端にバラックを建てて商店兼住居とした

もので、戦後の混乱時に形成されながら、市が事実上黙認したのが、そもそもである。

国際マーケットが強制撤去されたのに、まったく同類の海岸マーケットが1998年まで

撤去されなかった理由は何だろうか。


とにかく建築から、およそ76年もたてば、30戸の多くは廃屋同然となっていただろう。

建て替えが認められなかったのだと思う。

ついに尾道市の駅前再開発事業にともない、40~50年間も眠っていた道路拡張計画の実行

がなされることになった。

営業を続けていた3軒、しみず食堂、皆越園茶舗、植田商店に対しては、のちに駅前の芝生広場に市が

建てた木造平屋の4軒長屋へ移転させた。


わくわく亭が子供の頃、このマーケットには毎日のように来ていた。地図の上のほうに山陽線

があるが、踏切があって、その先に「孔雀荘」という喫茶店が見えている。その数軒左の奥にあった

井戸のわきに、少年期を過ごした。だからマーケットまでは歩いて5分とかからない距離だ。

住まいが近かったことと、同じ井戸を使っている近所の家が、マーケットで魚屋を営んでいたから、

魚は毎日のようにその店で買った。その家には男女3人の子供がいて、友達だった。店に行けば

店の手伝いをしている彼らがいた。

鮮魚店から数軒先には「天ぷら」屋があるが、そこも毎日のように利用した。

マーケットの拡大図である。しみず食堂、皆越園茶舗、植田商店にはカラーでマークした。

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マーケットの真正面に、いまは「うずしお通り」と呼ばれている小路があって、その昔林芙美子

一家が暮らしていた借家があった。その小路の左側、地図では23~25の番地がふられている

あたりに銭湯があって、たしか「宝湯」といったが、そこへ3日に一回は入浴に行った。

つまり、うずしお通りからマーケットかいわいは、少年わくわく亭の日常の生活圏だったのだ。


そんなわけで、マーケットの取り壊し前後の写真をさがしてみたのである。

1996年ころの、取り壊された1998年の2年目の雁木側から撮った写真と、1998年3月の

撤去作業中の映像が、尾道ケーブルテレビのニュース番組に残されていた。

それを紹介する。

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この写真は1997年に撮られたもので、マーケットの東の端、福本渡船場の角で、「三三九食堂」

と焼き肉店が写っている。三三九の「たこ焼き」の看板が見える。