「父・藤沢周平との暮し」

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新潮文庫『父・藤沢周平との暮し』の著者は周平さんの愛嬢・遠藤展子さんである。

平成19年に新潮社から単行本で出たとき、大泉学園の書店ではベストセラーの一冊だった。

わくわく亭は駅前の書店「英林堂」で立ち読みしました。

なにしろ藤沢周平さんは直木賞受賞の3年後である昭和51(1976)年の11月

に、それまでの東久留米から引っ越してきて、その作家生活のほとんどを過ごし、

平成9(1997)年1月に69歳で死去するまで暮らしたのが、大泉学園だったからです。


わくわく亭の住まいから、歩いて3分ほどのご近所に藤沢周平さんは奥さんと娘の展子さんと

3人で暮らしておいでになった。そのことについて、この書庫「ご近所の藤沢周平さん」で

詳しく書いてきました。


文庫になったのを機に、買って読みました。

娘の展子さんが生まれて8ヶ月後には妻が病死、その4年後42歳で再婚して東久留米市に移転。

46歳のときに直木賞受賞。そして49歳の年に、西武バスのバス停「北出張所」から徒歩数分の

ところに建て売り住宅を買って住むことになり、そこが終(つい)の棲家となります。


展子さんが父親と暮らした日々を回想するとき、東久留米と大泉学園の風景が思い出の中心舞台と

なるのは自然のことです。

したがって、わくわく亭がいまも住み暮らしている町のあちこちのことが、この本の随所に

書かれています。

たとえば、

大泉学園に引越すと、今度は家から歩いて15分ほどのところに区立大泉図書館がありました。

 私は中学生になっていて、以前ほど父と一緒に出歩くこともなくなっていたので、父は、

 母を連れ出して、この図書館で調べものをしていたそうです』

わくわく亭も利用している図書館ですから、館内で藤沢さんとすれちがったこともあったのではないかと

想像します。

いま館内には「藤沢周平コーナー」が設けてあります。


『父の日ごろの行動範囲は、家の近くの公園への散歩か、大泉学園駅周辺でした。

 駅の近くで父の行くところ言えば、まずは本屋に喫茶店に碁会所、そしてパチンコ屋。

 今は再開発されて、父が歩いたころとは大きく様変わりし、碁会所のあったビルもなくなり、

 パチンコ屋も馴染みの店は改装されました』

駅前の本屋は、当時もいまも「英林堂」があるだけです。その2階が喫茶店になっており、

そこが周平さんの行きつけの店の一つだったでしょう。いまも大泉学園在住のマンガ家たちが

編集者たちと打ち合わせに利用しているのが、その店です。

碁会所のビルは残っています。この原稿を展子さんが雑誌に書いた後で、彼女は

あるテレビ局の「藤沢周平ドキュメンタリー」でカメラマンとともに取材に碁会所を

訪れていますから、あとで記憶違いに気づいたことでしょう。

その碁会所の写真は、この書庫の2007年7月「碁会所の藤沢周平さん」にUPしてあります。


藤沢さんが住んでいた当時の家は、すっかり新しい家に建て替えられて、新しい住人が

住んでいる、と思っていた。

ところが、この文庫本によって、藤沢周平さんの家は移築されたということが分かったのです。


『父が最後まで住んだ家を手放すのは、とても寂しいことでした。

 しかし、その頃、鶴岡市藤沢周平記念館をつくり仕事部屋も再現する計画が

 持ち上がりました。そのおかげで、父の思い出がつまった家は、解体されて鶴岡に運ばれ、

 今は大切に保管されています』


それはよかった。

藤沢さんが亡くなった後で、夜、妻とつれだって周平さんの家へ行き、まだ門柱にはめられていた

藤沢周平」という表札を拝んできたのでしたが、あの家は作家の故郷に保存されていると

知って、安堵した心地がします。