尾道のラーメン

 東京の盛り場で、近年尾道ラーメンののれんや看板を見かけることも、めずらしくなくなった。

 先日も横浜の桜木町へでかけたとき、駅近くの商店街で2軒の尾道ラーメン店をみつけ、これはもう、かつての札幌ラーメンのブームに匹敵する大人気になるのではと、くすぐったいような気分になった。
 名前にひかれて、食べてみることもある。味も悪くはないのだが、わたしがかたくなに抱いている尾道のラーメンの味とは異なるものだ。わたしがこだわる味には、やはり尾道まで新幹線で足をはこばなければ、出遭えないものらしい。 
 それは「朱」さんのラーメンで、尾道店のほかには支店は出していないらしいからである。

 ところで尋常ではないラーメンの人気である。テレビを見ていても、北海道から沖縄まで、日本中のうまいラーメン店がくまなく紹介され、俳優やタレントが出かけて行っては試食して、うまい、うまいを連発しているし、デパートでは有名ラーメン店の味比べが催され、雑誌のラーメン特集号や専門書が書店に並んでいる。

 わたしにはうまいものを食べ歩く趣味もなければ、ラーメン通でもないが、ときに友人につれられて、うまいと太鼓判が押されたラーメンを食べてみても、尾道の「朱」さん味にかなうものに、いまだお目にかからない。

 そんな味自慢は勝手な思いこみで、だれでも少年期に食べたもので忘れがたい味覚の1つや2つはあるもので、客観的な評価とは認められない、とおっしゃる向きもあるだろう。

 ところがここに、客観的な第3者の証言があるのである。いまは故人となった作家檀一雄が、雑誌『旅』に連載した『美味放浪記』の中で、「朱」さんのラーメンのうまさに仰天しているのである。
 ほかに『檀流クッキング』や『わが百味真髄』の著書もある食通の檀一雄であれば、これ以上信頼に足る証人はいないだろう。彼の証言はこうだ。

 《……(尾道の)波止場近く並んでいる魚屋の店頭を覗き込んで、私はすっかり逆上してしまい、目の仇のオコゼを買い、ママカリを買い、シャコを買い、今度は乾物屋に廻って、デベラガレイを二束買い、まるで弁慶が七つ道具を背負った以上の恰好になった。(略)
 内海の魚に食傷気味の私は、久方ぶりに「朱」というラーメン屋に入り込んでいって、ラーメンを喰い、そのうまさにびっくりした。
 尾道では「暁」と云う、世界万国の洋酒を寄せ集めた居酒屋と、この「朱」と云うラーメン屋に、おそれ入ったようなものだ》

 檀一雄はわたしの好きな作家だった。その好きな作家が、わたしがこれ以上にうまいラーメンはないと、ひそかに信じている味を、公認してくれたこともうれしいのだが、わたしの味覚とかれの味覚とが接近していたことが、またうれしかった。                  

                                    ○

 「朱」さんの店は尾道旧市街の中央あたりにある。市街を東西につらぬいている本通りを、長江口で海岸の方へ南下すると、ごく普通の中華そばの店らしい「朱華園」が右手にある。
 へんてつもない店の外見から、これが檀一雄をそのうまさに「おそれ入った」と言わしめた店だとは想像もつかないだろう。ただし、いちど食べたものはみな檀一雄同様に、おそれ入ることになる。

 わたしが少年だったころ、つまり終戦からまだ間もなかったころ、「朱」さんの店は、いまの場所よりもすこし北寄りで、本通りのわきに出ていた。トタン板やヨシズをめぐらせて、内に食台とベンチを置いた夜間営業の屋台だった。客は詰め合っても、せいぜい10人でいっぱいになった。
 そこに屋台を据えてあきないをはじめる以前は、主人夫婦で屋台の車をひいて、市内をまわって商売をしたらしい。

 店の名を、みな「シューさんの店」と呼び、「朱」という漢字をあててみたことはなかった。少年だったわたしの記憶では、主人の朱さんは背丈はあるほうで、色白で、日本語はあまり得意でなかったせいか、口数の多くないひとに見えた。喜劇人の花菱アチャコがむっつりしていたなら、こんなかなという顔をしていた。
 
 ラーメンと焼きそばが人気メニューだった。油で揚げた中華めんに五目あんかけした「かた焼きそば」を、そこではじめて食べたとき、少年のわたしは「中国って、すごい」と感動した。
 ラーメンのスープにはこってりした脂の玉がうかんでおり、冬の夜でも、飲めばたちまち冷えた身体があたたまった。肉食にはほとんど縁遠く、煮干しのダシしか口にしたことのないわたしたちにとって、豚の骨からとったスープは別天地の味覚だった。

「シューさんの店」に頻繁に行けたのでもない。夜祭りの帰りであるとか、映画を見ての帰りとかで、母と兄と弟が一緒、あるいは親戚の家族も一緒という、わたしの家族にとってなにか特別の日に限られた。
 それも記憶にのこるのは、熱々のスープをよろこんだ冬の季節である。

 たとえば正月一番のたのしみは、家族がそろって出かけた映画である。それも夜の興行である。うきうきしながら、いつもより早めに夕飯をすませ、よそいきの服を着て、片道およそ30分ほどの距離を、本通りを歩いて、町の東にある映画街へ行くのだった。

 往きはまだ両側の商店が店をあけているから、人通りも多く正月のにぎわいがある。映画街に入る横道にくると、人波でごったがえして歩くこともままならない。
 映画街といっても、いわば道幅の狭い路地の左右に、4,5軒の映画館がかたまっていた場所で、最盛期は6館あった。いまその路地はぎっしり、晴着を着た人で埋めつくされていた。
 
 お目当てはチャンバラ映画の2本立てである。指定席といった上等なものはなかったから、1本上映が終わるたびに、空いた席の取り合いがはじまった。
 そこは戦場である。館内から外へ出ようとする客と、中へ入ろうとする客とがぶつかりあって、押し合いへし合いをやる。女が悲鳴をあげたり、親にはぐれて子供が泣いたりするのも、めずらしい光景ではない。脱げた履き物までころがっている。

 そんな殺伐とした場所で、わたしたち家族がかたまって席につけるわけがない。幸運にめぐまれたものから席をとり、不運なものは終映になるまで立ちっぱなしも覚悟の上である。通路という通路には座り込んだ客がいるから、人の頭の上を歩くことになる。

 場内が明るくなると、大勢が起ち上がって見回しながら、連れの所在をたしかめあう。
「ここよ、ここここ」
「このとなりが、もうすぐ空きそうだから」
 などと言葉がとびかう。
 前列の席の話し声から、1本見終わった客だとわかると、その人の肩をたたいて、つぎの1本が終わったらその席をくれるようにと予約をとる。通路に座ったものは、そんな予約があろうとおかまいなしに入り込むから、喧嘩がはじまる。
 そんな喧嘩さわぎも、場内が暗くなり、予告編、ニュースにつづいて本編がはじまるまでのことで、観客たちの意識はスクリーン上に、おそろしいほどの集中力をみせた。
 正月の映画館は、暖房設備が不完全だったにしろ、人いきれで汗ばむ状態だった。

 最終回を観たわたしたちは、その日さいごの客だから、押し合いへし合いすることなく、落ち着いて映画館を出る。外に出ると、とたんに木枯らしに吹かれて、わたしたちは首を襟の中にすくめ、両手はズボンのポケットの中。コートのような上等な物は着ていない。やたら背をまるめて歩きはじめる。
「シューさんとこで、中華そば食べて帰るんよね」とわたしが言うと、
「そうじゃね」と母が答えた。

 長江口までの10分間は、どんなに寒くとも、風がつめたくとも、もはや苦にならない。映画が今夜のお楽しみの前編なら、まだその後編が待っているのだから。

 「シューさん」の屋台の前には、わたしたちのように映画帰りの先客が10人あまりも列をつくっている。その最後尾にならぶ。
 真っ黒い空には、くっきりと冬の星座が凍りついている。千光寺山から海へと吹き下ろす風も、本通りを東西に吹き抜ける風も、鋭利な刃物のようだ。しもやけで赤くふくらんだ耳たぶを刺していく。 
 わたしたちはじだんだ踏みながら寒さにたえる。列をつくる客の数を、いくども数えて、あと何人で自分たちの順番がくるかたしかめる。

 朱さんのおかみさんが、列の先頭数人の中に入ったわたしたちから注文をとりはじめると、寒さの我慢もあと少しだね、という眼でわたしは母の顔を見る。わたしはもちろん「かた焼きそば」を注文した。

 ついにわたしたちはトタンかこいの内へ通される。明かりは屋根がわりにしているトタンの波板につるされた裸電球1個である。腰掛けに膝も肘もくっつけあって座る。食台の下で焚いている練炭火鉢が寒さをやわらげてくれる。
 スープ鍋から、もうもうと立ちのぼる湯気を見れば、寒さも忘れそうだ。グラグラ煮立っているのは豚の骨だ。あたりに脂くさい旨味のにおいが立ちこめており、わたしはつばきを呑みこんでいる。
 高校生の兄、小学生の弟の顔も、そのにおいに惹きつけられて、赤い頬がてらてら光っている。

 もうすぐわたしの焼きそばがくるぞ。母のラーメンのスープも飲ませてもらうぞ。足がうごめいて静止しないのは、寒さのためではない。刻々と逼りくる、しあわせの瞬間まで足が冷静に待ちきれないのだ。
 そして、ついに、食台の上に、至福の時がおとずれる。わたしは、母の顔を見る。

                                    ○

 いま「朱華園」のラーメンは460円だそうである。15,6年まえに、わたしたち兄弟3人がそろって「朱華園」へ行ったときも、たしか同じような値段だった。

 それは伯父の葬儀のために、わたしと弟は東京から、兄が大阪から久しぶりに尾道へ行ったのだった。その夜の通夜と翌日の本葬のあとで、わたしたちは変貌が著しい市街のようすを見るため、つれだって出かけた。本通りをそぞろ歩いて、めざすところはかつての映画街である。

 こんなに狭い横道だったかと驚きながら、映画館が5つも6つも立ち並んでいた路地へと曲がった。わたしたちは愕然として立ちすくんでしまった。
 たしかにあれから35年の歳月は経ってはいるが、なんという変わり果てた景色だろう。もと映画館だった両側の建物すべてが廃屋のように閉ざされ、人の侵入を防ぐために板が打ちつけてある。その場所に立つものは、わたしたち3人だけだった。

「シューさんのラーメン屋へ行ってみよう。いまは立派な店をかまえているそうだから」
 兄が気を取り直すように言った。

 午後の2時すぎで、店の客はわたしたちだけだった。3人ともラーメンを注文した。厨房は店の奥にあったから、少年のころ見かけた朱さんが、いまも元気にスープ鍋のそばで立ち働いているのかどうかは分からない。

 ラーメンがきた。わたしたちは口をつけると、すぐに顔をあげた。
「味はかわってない」と兄が。
「おなじ味だ」と弟が。
「子供のときにうまいと思うたものが、大人になって食べてみて、失望することは多いけど、ここのラーメンの味はむかしの記憶を裏切らなんだ」兄が言った。
 そこで、わたしは檀一雄をして、『美味放浪記』でこの味に、おそれいったと書かせたという話をした。わたしたちの味覚の確かさも証明されたのだと冗談も言った。
檀一雄でなくても、おれが証明する」と兄が。
「うん、ぼくも保証する」と弟が言った。

 冬の夜、屋台店の中で、わたしたちが体験した、あの至福の時はまぼろしではなかった。