尾道のええじゃないか騒動

 もう数年越しで、文化文政期から幕末にかけての尾道商人たちの物語を書きかけているのだが、なかな

か先に進まない。その作業の途中で、色々の資料を読むことになる。

するとそこでまた面白い事実に出くわすと横道へ入り込んでしまい、肝心の物語が棚上げになる。

そうして時間ばかりが経ってしまう。

 いまも広島藩史を検分しつつ、「慶応三年、尾道にええじゃないか騒動がおこり、竹原、広島にも波及

する」という一文に、へえ、あの「ええじゃないか」騒ぎが尾道でも起きたのか、と興味をひかれて、ま

たしても横道へと迷い込みそうになる。

 ええじゃないか騒動は幕末の慶応三年(一八六七)七月から翌慶応四年四月にかけて、東海道畿内

ら四国に広がった社会現象で、天から御札が降ってきて、これは慶事の前触れだと民衆が騒ぎ、仮装する

などして「ええじゃないか」など囃子ことばを連呼しながら集団で町々を巡って、熱狂的に踊った、とい

うのが定説とされている。

 騒動の発祥地には諸説あって、京都、西宮、伊勢、豊橋、名古屋説などがあるらしい。

以前私は、東海道御油宿に秋葉神社の火防の札が降下したのが始まりで、つづいて東海道吉田宿(現在

豊橋市)では伊勢神宮の神符が降り、民衆の狂喜乱舞の騒ぎが西へと広がったとするのを定説だと考え

ていたのだが、各地で発祥地は当地であると文献を証拠に名乗り出て、右のように諸説が入り乱れてい

る。

 たとえば京都発祥を主張する説では、岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』を持ち出す。

その伝記によると、「空中より神符がへんぺんと飛び降り、あちこちの人家に落ち、神符の降りたる家

は、壇を設けてこれを祭り、酒淆を壇前に供え、来訪するものを接待し、これを吉祥となした。都下の士

女は、老少の別なく着飾り、男は女装し、女は男装し、群をなし隊をなす、そして卑猥な歌を歌い、太鼓

で囃し立て『よいじやないか、ゑいじやないか、くさいものに紙をはれ、やぶれたらまたはれ、ゑいじや

ないか、ゑいじやないか』という。衆みな狂奔醉舞し、一群去ればまた一隊が来る。夜にはいると、明々

と照し、踊りつづけた」と言い、「(慶応三年)八月下旬に始まり十二月九日王政復古発令の日に至て止

む」とあるらしい。

 その民衆の姿が興味深い。王政復古の世を待望する京都人が、祭の宵宮を祝うような姿では無いか。

さすが祇園祭の伝統を守り通してきた京都人らしい。

 ええじゃないか現象は畿内から西宮、神戸を経て、山陽道を西に進むと広島藩尾道へやってくる。

尾道では十一月末から十二月初め頃に始まったとされている。

 ここで注目されるのはその時期である。その年の十月十三日には倒幕の密勅が薩長両藩に下されてい

る。広島藩薩長と連名で倒幕勅命降下を要請していたものの、広島藩大久保利通らから日和見である

とみなされて除外された。

 それでも同月十六日の薩長芸三藩の出兵協議にもとづいて、薩摩藩兵の入京、長州藩兵の西宮上陸と平

行して、広島藩は後陣として長州藩兵の一部とともに兵を尾道へ派遣して駐留させるのである。

それが十二月初めの頃になる。

 資料では尾道では、「エジャナヒカ、エジャナヒカ、長州サンノ御登リ、エジャナヒカ、ヱジャナヒ

カ」と歌われて、上陸した長州藩兵も一緒に踊ったというのだ。

尾道の町民たちは広島藩兵ばかりでなく長州藩兵までが乗り込んできたのを見て、時代の激動を感じて興

奮したことだろう。

 『岩倉公実記』の記述から連想してみると、尾道の町民たちも、着飾る者あり、女装する男あり、

男装する女あり、群れをなして山陽道である本通りを踊り歩いたであろう。

久保町、十四日町、土堂町の両側に軒を連ねていた商家の店先では酒肴を無礼講に振る舞うところもあっ

ただろう。その酒を飲んでさらに狂喜乱舞する群衆は渡場町、今町から町の入り口にある町奉行所のあた

りまで進んだことだろう。
 
 翌慶応四年には鳥羽伏見の戦をはじめとして、戊辰戦争が開始となるが、尾道に駐留していた芸長両藩

の兵は上坂を命じられて、途中の福山、姫路、龍野諸藩の帰順をすすめながら大坂に入り警備についたと

のことである。

 さてその頃、尾道の本通りに軒を連ねていた問屋商人たちはどんな状況だったか。

衰退著しくさんざんな状態だった。問屋株仲間の数だけは五十軒ほどあったが、ほとんどが窒息状態にあ

り、廃業して問屋株を売りたくても、二束三文であり、それでも買い手が無いという惨状だった。

 豪商とも呼ばれて繁栄した尾道問屋の最盛期は正徳、享保期ころまでで、それ以後は衰退する。

衰退の因の一つは、繁栄をもたらした北前船が沖乗りして尾道へ寄港しなくなったことがある。

北前船の船頭たちの買積みに関わって口銭を稼いで繁栄したのが尾道問屋業だったのが、肝心の北前船

入港が激減していったのだ。

それには広島藩のえげつない国益優先政策が関係する。

領内の主要な産物を藩が買い上げて、大坂市場で専売する政策である。

領内で買い上げるときには藩札で払い、大坂で販売して得た正銀は藩庫へ収めてしまう。

藩は領内では藩札の流通を強制して、他国から入金する正金銀は藩庫へ吸収する政策を強力に進めたの

だ。尾道商人たちはその政策の犠牲になった。

尾道商人たちの手元に溜まるのは藩札ばかりである。藩札は北前船の船頭との取引には使えない。

藩による頻繁な藩札の乱発で、藩札の価値はどんどん落ちる。

弘化四年発行の藩札の平価は、そのまえの明和札の四十分の一とされた。

嘉永五年の嘉永札のごときは五百分の一に平価を切り下げたのだ。

これでは藩札を抱えた尾道商人たちが破産倒産しないのが不思議と言うことになる。

京都から下関まで西国一の繁華をうたわれた商港尾道は、こうして衰弱状態で幕末を迎えつつあった。

そこへ「ええじゃないか」が畿内からやってきたのである。世直しじゃ、回天じゃあ、ええじゃないか。

経済的な窒息状態にあった尾道町民は、鬱憤を爆発させて狂奔醉舞した。