尾道学入門の講義

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尾道市立大学で5月24日午前9時から10時半まで「尾道学入門」講座で

「明治四年の尾道打ち壊し」の話をします。

一般へ公開講義なので、自由に聴講できます。無料です。

明治4年8月に広島城下で旧浅野藩主の東京移住を引き留めようとする群衆の嘆願行動が

暴動に発展し、兵隊が鎮圧のため発砲。二十数名の百姓が死亡。

これに怒った百姓の暴動は広島全県に広がり、尾道へも1万数千人の一揆勢が襲来。

8月19日から千光寺、西国寺、浄土寺の三山に陣取りする。

原城に詰める兵隊300名が鎮圧のため出動、長江の善勝寺を屯所にする。

善勝寺を包囲した一揆勢と戦となり、向島の百姓が銃殺される。

百姓側は士族の隊士一名を捕らえ、海岸でなぶり殺しにする。

兵隊は兵粮攻めに遭うことを恐れて吉和村へ撤退。

一揆勢は長江にあった割庄屋金屋熊谷幾右衛門屋敷を打ち壊す。別荘「ゆうすい園」を焼き打ち。

郡役場、町役場や町家を打ち壊す。

荒神堂小路の薬種卸「天満屋」が打ち壊しに遭う。

火薬原料の焔硝を隊中へ卸していたことが理由。

22日には4000人が向島へ渡り、4000人が尾道神葬祭をする家々を見つけ出して

打ち壊す作戦。本陣笠岡屋の東隣にあった秋田屋が打ち壊される。神葬祭が原因か?

22日になって広島から前藩主の名代が鎮圧部隊を引き連れて到着。

25日には鎮静。

明治政府は神道の国教化推進をもくろんで、「神仏分離令」を出すが、それが廃仏毀釈

嵐を引き起こす。広島の百姓は安芸門徒として知られる連帯意識の強い組織をつくっていたから、

神葬祭に対して強い反抗のエネルギーを生み出した。

こうした話を予定しています。300人ほどの学生さん達と一緒に階段教室で聴いていただき

ます。どうぞお出かけ下さい。

写真は―田屋のあった小川町碑∩云〇琪E桂?悪た請鮑彎谿ε譱栂酖