尾道の料亭「胡半」(えはん)

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尾道の料亭「胡半(えはん)」


 去年、『尾道文学談話会会報』第七号に「ええじゃないかが尾道へ来た日」という随筆を

書いた。幕末の慶応三(一八六七)年十二月、芸州藩兵と長州藩兵が倒幕軍の後詰めとして

尾道に進駐するのであるが、両藩が連日のように用談集会をしている様子が芸州藩士の「尾

道表出張中日記」という記録に残されていることを書き、その内容を一部割愛しながら紹介した。

 その中に十二月二十二日、尾道の新地胡半での集会酒宴があり、「妓女六人参り、賑々敷き

事にて、後頃皆々床取に相成り候事」と、藩士達は相方を決めて床入りし、藩士の岡田には

みつゑ、山田には国江、才木にはおいち、泰吉に十きちと、妓女たちの名前も記し、さらに

泰吉の相方十きちは至極気質が柔和で、随分の器量よしだったよし、と書いている。

そして夜の八ツ半(午前三時)頃に宿舎である正授院に戻っている。

 明けて慶応四年はもう明治元年であり、その一月三日には戊辰戦争の緒戦である鳥羽伏見

の戦いが起こり、芸州藩兵も八○○名が参加している。そのわずか十日前、兵士ではない

事務方藩士達の緊張感の緩んだ宴会と女遊びの「出張日記」だった。

そして十二月初めから始まった伊勢神宮の札降りとええじゃないか踊りの熱狂が、尾道の往来

を埋め尽くしていたのである。

 私は右の集会場所である「新地胡半」が何処にあったか知りたくて、すこし調べてみたのだが、

原稿を書き上げるまでには分からなかった。
 
 つい先日のこと、文化年間の尾道風景で知りたいことがあって、『安永の屏風』という安永三

年に描かれた尾道絵図のDVDを見たところ、胡半が見つかった。

 久保の八坂神社の東、防地川沿いで、新地の東端に一際大きな建物が描かれており、屏風絵の

解説者である財間八郎氏が指示棒で指し示して、

「これが、あの胡半(えはん)、一名を帆影楼という料理屋です。幕末に芸藩と長州藩藩士たち

が集まって酒を飲みながら騒いだ場所の一つです」と話す。

 映像中の建物の下に「胡半」の文字があり、「えはん」の振り仮名がついている。

 私は胡半を「こはん」か「えびすはん」と読むものと思っていた。「えはん」と読ませたのに

は、どんな訳があるのだろう。創業者が胡屋半兵衛(えびすやはんべえ)とでもいう人物で、胡屋

の「え」と半兵衛の「はん」をとって「えはん」という屋号にしたのか。

 明治三十二年尾道生まれの郷土史家である財間氏が「あの胡半(えはん)、一名を……」と語る

時の、「あの」に帯びた語調になにか含まれたものがある。それを、戦前の尾道花街を知る者であ

れば、「あの胡半は、江戸安永期の昔に、すでにあったのか」という感慨を催すことを財間氏は予

測しているように思える。

 そうした思いつきを膨らませて、もうすこし胡半のことを想像をまじえながら考えてみたい。
 

 安永三年の屏風絵に胡半が描かれている。それは西暦一七七四年である。戦前まで存続していた

となると、それはおよそ一七〇年間以上という長い年月である。

 先に思いついた胡屋半兵衛だが、その名の人物が尾道にいたことが分かった。だからと言って、

胡半となにか関わりがあったかどうか、なにも分からない。

 分かっていることは、胡屋半兵衛なる人物が江戸末期の尾道の茶人内海自得斎の門人の中にいた

ということだけである。自得斎は本名を内海助三郎と言って、尾道商人住屋の当主だった。

茶園文化が栄える江戸後期の尾道に、藪内流がもたらされると、自得斎は同流派の宗匠として

活躍し、藪内流を尾道における茶の湯の主流に育てる。現在の尾道市東久保町の山王社(山脇

神社)参道入口近くに住んで、その庵には頼山陽、田能村竹田などの文人墨客や、地元の豪商

で文化人でもあった橋本竹下などが訪れていた。安政三(一八五六)年に歿している。

この自得斎の門人に胡屋半兵衛なる人物がいた、ということ。

 
 幕末、胡半の姿は芸州藩士の「尾道表出張中日記」の中に花街新地で繁盛する料亭として現れた

が、明治維新後はどうだろうか。

 大正四年、中国実業遊覧案内社による『尾道案内』という刊行物に、胡半の名が見える。

「……明治維新の際、遊女解放の沙汰ありたるとき、全部帰郷し、志望により唯だ〈胡半(エハン)

〉の小枝、〈若胡(ワカエビス)〉のお定のみ残り、茲(ココ)に尾道花柳界は、一時頽廃の悲境に

陥りたるも、漸次また復活し……」とある。

 この『尾道案内』は尾道新開の遊廓と新地の芸妓を案内する刊行物で、胡半は芸妓の置屋として

その名がある。「明治維新の際、遊女解放の沙汰」というのは、明治五年に横浜で起きた「マリー

・ルイーズ号事件」に関係して、日本の公娼制度は奴隷制度とかわらない、と国際的批判が出るの

をおそれて、娼妓解放令を発令したもので、それまでの公娼遊女を娼妓と呼び、遊女屋を貸座敷と

改称した。貸座敷の経営者は娼妓を身代金によって束縛しているのでなく、彼女達を寄宿させ、

部屋代や設備の貸与料をもらうだけで、その稼業は自由意志によってなされているという建前を

用いて、実質は従前と変わりがなかった。

 『尾道案内』には大正四年における置屋十戸と三十六名の芸妓の名が掲載され、胡半には小蝶、

国香、玉千代、市松、小半の五名が所属する。これから分かることは、胡半は芸娼妓の置屋であり

揚屋を兼営する料亭だったであろうということではないか。
 
 慶応三年に記された「尾道表出張中日記」の中で芸州藩士たちが妓女たちと遊興した当時から、

胡半の業態は変わっていなかったのだろう。

 山陽日日新聞社が発行した『心のふるさとシリーズ第四集・戦後の足跡』の中に、

「久保二丁目、新地の料亭〈絵半〉といっても戦前の旦那衆にしか思い出はなかろう。日露戦争

代(明治三十七~三十八年)には伊藤博文も宿泊して一夜を清遊したという」との記述がある。

 絵半は胡半と同じであろう。

 伊藤の芸者好きは有名である。一流の芸者ではなく、二流、三流の芸者をよく指名して、両側に

侍らせて寝たなどの逸話が数知れないほどの豪傑だったらしいから、右の「一夜を清遊」がどんな

ものだったか、およそ想像がつく。

 明治四〇年に広島県歯科医師会設立発起人会というものが「濤声帆影楼」で開催されている。

『安永の屏風』解説で財間八郎氏が「これが、あの胡半(えはん)、一名帆影楼という料理屋です」

と言っているから、この頃帆影楼と改名されていたのではないか。

大正十三年に宮地三保松が発行した尾道全図を見ると、ここでも帆影楼の名がある。

 しかし同じ時期である大正四年の『尾道案内』では芸妓の置屋として胡半の名があることからし

て、帆影楼と胡半の屋号は同時に使われ、料亭と置屋とで使い分けられていたことも推測できる。


 さて、昭和時代である。右の『戦後の足跡』によると、昭和十年、当時の「絵半」所有者であっ

た吹挙半兵衛氏から長野県出身で新開でソバ屋を経営していた加藤氏が「絵半」を借り受けて、

カフェーと料理店を始めたが、そのときに店名を「藤半」に改称したのかも。しかし戦時中の

昭和十八年に閉鎖したとある。

その後浅野セメントの徴用工員宿舎として使用されていたが、所有者の吹挙氏から相談があって、

加藤氏が七万二八○○円で買い取ることになる。

 戦後に割烹旅館として再開したときに、あるいはここで「絵半」から「藤半」に改称されたのか

も知れない。

昭和二十年十一月に米軍の占領部隊が尾道に進駐すると、「藤半」は占領将校のためのホテルと

将校クラブである「慰安所」に指定される。

 さらに米軍からクリスマス・パーティーに間に合わせて、ダンスホールを整備するよう命じられ

、藤半では進駐軍の声掛かりによって、県内でもっともはやくダンスホールを開設する。

しかし苦労したのは進駐軍将校たちを相手に踊るダンサーをみつけることだった。

女性たちは米兵たちを恐がって、みな尻込みしたからである。つい三ヶ月前までは、鬼畜米英

と呼び赤鬼と呼んで恐れていた相手であれば、無理からぬことだった。

 翌二十一年五月に米軍は尾道から退去し、入れ替わって豪州軍が進駐してくる。

 数年前に、この藤半のダンスホールを題材にして、私は『昼下がりのダンスホール』という

小説を書いた。その時はまだ「胡半」のことは何も知らなかったのだが、尾道進駐軍につい

て資料調べのため尾道市立図書館に行ったとき、図書館を出た後で、藤半まで歩いてみた。

山陽本線下のガードを抜けて、まっすぐ海岸の方角へ歩くと、右手にはすぐ通称〈爽籟軒〉と

呼ばれる橋本屋敷の長い土塀が続く。塀が尽きて、さらに空き地を利用した駐車場に沿いながら

五十メートルも行くと、右手に白い二階建ての洋風建築がある。それが現在の藤半だった。

 午後の三時前後だったから、出入りする客の姿はなかった。店の前の駐車場から建物をしばらく

眺めていたものの、食事をするつもりもなかったから、中に入って見ることはなかった。

入り口の木製ドアの外に、料亭の由緒や代表的な料理案内が書かれたパンフレットが駕籠にいれて

置かれていたので、店内に入ることはせず、それを一部貰って引き揚げたのだった。

 藤半は平成二十九年の現在も同じ場所で料亭として営業している。

「安永の屏風」に描かれてから、二四三年ということになる。