尾道駅前国際マーケット(3)

尾道駅前国際マーケットの24戸は昭和40年11月18日と19日の2日間で撤去されてしまった。

わくわく亭が、この事件をまったく知らなかったのは、その当時東京にいたからである。

38年春に大学を卒業すると、5月から東京勤務になった。

その翌年39年には東京オリンピックが開催されている。日本の高度経済成長期の真っ直中に

あって、それは昭和48年頃まで、およそ18~19年間続いたといわれている。

「もはや戦後ではない」と経済白書が書いたのが昭和31年のこと。34年には「世紀の御成婚」

があった。東海道新幹線が開通したのが、オリンピック開催直前の39年10月だった。


こうした「もはや戦後ではない」という社会変貌の裏側で、戦後の顔を持った尾道駅前の国際

マーケットが姿を消したのである。

店舗と住居を失った住民は、その後どうなったのか。

尾道郊外の母子寮とバラックに収容された。市は希望者からの仮設住宅の申し込みを受け付ける」

と『市民戦争』のナレーションが言っている。

北朝鮮系住民夫婦は、まだ3年ほどしか住んでいなかった住居兼居酒屋店を失って、市内の

朝鮮人連合会事務所に身を寄せた、という。


さて、国際マーケットは、尾道駅前のどこにあったものなのか。

それが知りたくて、テレビドキュメント『市民戦争』を川崎まで観に行ってきたのだ。


まず、昭和37年の尾道地図をみよう。

駅からまっすぐ進むと駅前桟橋ビルがある。その前の道を左へ(東へ)曲がる。

地図に「市営駅前駐車場」とある細長い区域が国際マーケットの場所である。

地図発行当時には、もちろんマーケットは存在していたが、マーケットの24戸は図示することなく

市が土地の使用計画している「駅前駐車場」として記載している。

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するとマーケットの裏側から、目の前には桟橋がある。

『市民戦争』からマーケットの家並みと桟橋の写真を紹介させていただく。

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さらにもう一枚、強制執行の作業員のヘルメットが邪魔をしているが、その向こうに桟橋の

姿がわずかに確認できる。

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これらによって、尾道駅前国際マーケットの存在した場所は確認できた。

現在は一帯は埋め立てられて、広場になり、芝生が植えられて公園になっている。


ここで、また山陽日日新聞発行の『戦後の足跡』から引用する。

駅前国際マーケットは「敗戦の名残り」である。その名残りはいまだ尾道海上保安部から東へ

渡し場までつづく海岸線にあるマーケット、露店が解決されなければ、戦後は終わったとは

いえない。

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昭和47年1月発行の『戦後の足跡』がまだある「戦後の名残」とするのは、上の地図の右側に

印をつけた30数軒ある海岸沿いマーケットのことで、これが最終的に取り壊されたのは1998

年のことである。