五味康祐邸の門(3)
五味康祐氏は流行作家として絶頂期にあった昭和40年7月、名古屋市内を運転中に人身事故を
起こす。60歳女性とその孫の6歳の少年が死亡する。逮捕、起訴される。
41年1月に禁錮1年6ヶ月、執行猶予5年の判決に服す。
一時断筆して、家に閉じこもり、悔恨と慚愧の思いに沈み、ひたすら音楽だけを聴く生活をしたらしい。
事故後はまとまった長編小説の執筆はない。
氏のオーディオやクラシック音楽への造詣と愛情は世に知られたところである。
「西方の音」「天の声 西方の音」などの音楽随想があるほどである。
1980年(昭和55年)4月肺ガンのため死去。享年58。
それから19年後の1999年妻の千鶴子さんが死去。
さらに6年後の2005年、一人娘の由玞子さんが死去。
これで五味家には相続権者が絶えてしまった。
2007年五味康祐氏の蔵書、文献資料、オーディオ関係の遺品など動産のすべてが一括して
練馬区が受け入れることになる。
土地、家屋の不動産は国庫に収納されることになり、裁判所の決定によって入札、売却された、
と聞いた。
となると、広い敷地は、複数に分割して売却されたであろう。
「五味通り」に行って見ても、どこからどこまでが旧五味邸だったか分からないのも当然なのだろう。
しかし、わくわく亭の頭の中に、あの特徴のある門が見える。
そうだ、もう一度「五味通り」に行って、それを確かめてこよう。
ありました。
あの五味邸の屋根付き門は残されていた。
まだ古びていないから、建て直されたことは間違いないだろう。
どういういきさつがあったものか不明だが、五味家の分割された不動産を買い取った人のなかで、
この門を残すことを希望した人がいたらしいことは確かなのだ。
かくして、五味康祐邸の門だけが「五味通り」に残ったのである。