高野文子『おともだち』(2)

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「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」は自意識過剰な「乙女」の頃の少女たちが、

それゆえにガラスのように壊れやすく繊細なこころで、真・善・美を少女どうしの

友情のなかに求めようとする、うるわしい季節のものがたり、なのである。

吉屋信子の『花物語』の中にでもありそうな物語で、高野さんは吉屋信子を愛読して

いたのではないだろうか。

こころの中にある深い悲しみを顔には出さず、けなげに生きる、りりしく美しい少女を

その近くから恋にも似た熱い同情心をもって敬愛する乙女がいる。

彼女たち“処女”の潔癖な友情を描くために作者は、それを大正ロマンの風景のなかに

ノスタルジックに描いた。高野文子さんの傑作である。

その効果を醸成するために色々な舞台装置やお膳立てがこらしてある。

1)舞台は港町山手のお嬢様学校。言葉遣いは、当時の東京山の手言葉をつかわせている。

2)港町とは横浜であろう。

  開港記念祭にそなえた歌劇の練習をしている時期を、「5月」としている。

  横浜の開港記念日が6月2日であるから、まちがいないところだろう。

3)漢字とカタカナまじりにしたタイトル、そして文章はすべて旧仮名遣いにするという

  こりようである。

4)少女達の制服は着物にはかま姿であり、いまの宝塚歌劇団の養成所の制服のようである。

5)時代はいつ頃に設定しているか。

  それを推定するヒントは、物語の冒頭で露子が「青い鳥」のチルチル役がしたかった、と

  自分の日記をめくる場面があり、

  「前の年初めて少女歌劇というものをみにゆきました。其の中でたヾひとり少年の役を

  演じた少女がをり、其れ以来わたくしは其の子役の少女に夢中なのでした」

  その子役が演じたのがチルチルであり、子役の少女は「栗島すみ子」だったと告白

  する。

栗島すみ子といえば日本映画界の初のスター女優である。

彼女がはたして映画女優になる前に、少女歌劇でチルチル役をやったことが実際にあったのだろうか。

そして、それが事実としたなら、それは西暦何年のことだったか。

それが判明すれば、この高野さんのマンがの設定した時代がわかるというものである。

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わくわく亭は時代考証といった作業がすきなので、すぐにしらべてみた。

まず、メーテルリンク原作の童話戯曲「青い鳥」は明治43(1910)年には日本で翻訳発表

されているから、少女歌劇が上演していたとしても不自然ではない。

栗島すみ子は明治42(1909)年、7歳で養父の栗島狭衣と共演して「新桃太郎」という

児童劇に出演している。

(ちなみに少女歌劇といえば、数々あったけれど、もっとも成功して生き残ったのが

宝塚少女歌劇団である。宝塚少女歌劇が旗揚げ公演したのが大正3(1914)年であり、

東京の帝国劇場で初公演したのが大正7(1918)年だった。これには栗島すみ子は関係

していない)

ついで、大正元年(1912)にはじまった東京の有楽座児童劇に、栗島すみ子は養父栗島狭衣と

ともに参加している。彼女は10歳である。

子役を演じるには、うってつけの年齢である。

この有楽座児童劇の公演内容が見あたらないので、なんともいえないのだが、高野文子さんは

なんらかの資料から、この児童劇で栗島すみ子が「青い鳥」のチルチルを演じたという

ことを知っているのかも知れない。

また、その翌年大正2(1913)年には、帝劇楽劇部が子供向きメルヘン・オペラと

銘打って「夜の森」(ヘンデルとグレーテル)を上演している。

大正期における児童劇、少女歌劇に流行をうかがい知ることができる。

といったワケで、

明確な情報を得てはいないが、わくわく亭は栗島すみ子の児童劇出演時期から推理して、

「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」の時代設定は大正元年(1912)から数年後だと考える。