「女の100年」から(2)
平成のこの時代、大人の男女が「情死」という心中自殺をするなどということは、ほとんど
考えられない。
波多野秋子さん。
雑誌「中央公論」の編集部に所属した美人記者だった。
1923{大正12)年に軽井沢の作家有島武郎の別荘で縊死。
27歳だった。
情死の相手は、もちろん有島武郎だった。45歳。
必読書といわれて読んだが、彼らの情死についてはよく分からなかった。
当時あった姦通罪というものを理解できなかったためだろう。
波多野秋子には夫があった。英語塾の経営者だった。
エリートだった。
有島は妻安子に先立たれ、3人の子供をかかえて作家生活をしていた。
そこへ美人で名高い記者の波多野秋子が現れた。
中央公論の名物編集長である滝田樗陰は彼女の、同性でも魅惑されるほどの美貌を
つぎのように伝えている。
《背は高く、肉付きもよく、ことに眼が大きく活き活きと輝き、顔の輪郭や鼻の形は
ギリシャ型》
永井荷風をはじめ文壇の作家たちは、彼女の訪れを心待ちにしていたという。
ふたりは心中する一ヶ月前に鎌倉で一夜を過ごす。
それを知った彼女の夫に不倫をせめたてられる。秋子は離婚してくださいと懇願するが、
夫は訴訟すると二人をせめる。当時は「姦通罪」という法律があって、
エリートの有島武郎は、スキャンダルに弱く、追い詰められた。
はじめての鎌倉での一夜から、わずか一ヶ月で、かれらは心中自殺を選んだのである。
有島は遺書に「歓喜して死を迎える」と書き残すが、
秋子は「あなたを独りぼっちにしてゆくのが、可哀想でたまりません」と複雑な女心を残す。
昭和の情死といえば、太宰治と大崎富栄。
昭和23年6月13日。玉川上水で入水心中。
あまりに有名な事件、なにもいうことはないのですが、太宰は知っていても、
大崎富栄さんの顔を知らない方のために、写真をUPします。
富栄さんは29歳だった。
急死した。
抱月の愛人であった女優の松井須磨子は、抱月の臨終の席で、
「注射をして生き返らせなさい」と叫んだ。
かたわらには抱月の本妻がいて、
「遺体に触らないで」と叫んだ。
須磨子にとっては愛人であるまえに、抱月は近代演劇の師であった。
ふたりが興した芸術座の演劇『復活』の劇中歌「カチューシャの唄」は日本全国に
大流行したものである。
抱月が病死して2ヶ月後、大正8年1月に女優松井須磨子は芸術座の楽屋で縊死した。
抱月のいない世界に生きる意味を失った、一途の愛の女は、33歳だった。