「女の100年」から(2)

平成のこの時代、大人の男女が「情死」という心中自殺をするなどということは、ほとんど

考えられない。


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波多野秋子さん。

雑誌「中央公論」の編集部に所属した美人記者だった。

1923{大正12)年に軽井沢の作家有島武郎の別荘で縊死。

27歳だった。

情死の相手は、もちろん有島武郎だった。45歳。

有島武郎といえば白樺派の作家で、文学青年だったわくわく亭なども、高校生のころに

カインの末裔」「生まれ出づる悩み」「或る女」「惜しみなく愛は奪ふ」などを

必読書といわれて読んだが、彼らの情死についてはよく分からなかった。

当時あった姦通罪というものを理解できなかったためだろう。


波多野秋子には夫があった。英語塾の経営者だった。

有島は大蔵官僚の家に生まれ、学習院から、札幌農学校、さらに渡米してハーバードに学ぶという

エリートだった。

有島は妻安子に先立たれ、3人の子供をかかえて作家生活をしていた。

そこへ美人で名高い記者の波多野秋子が現れた。

中央公論の名物編集長である滝田樗陰は彼女の、同性でも魅惑されるほどの美貌を

つぎのように伝えている。

《背は高く、肉付きもよく、ことに眼が大きく活き活きと輝き、顔の輪郭や鼻の形は

 ギリシャ型》

永井荷風をはじめ文壇の作家たちは、彼女の訪れを心待ちにしていたという。


ふたりは心中する一ヶ月前に鎌倉で一夜を過ごす。

それを知った彼女の夫に不倫をせめたてられる。秋子は離婚してくださいと懇願するが、

夫は訴訟すると二人をせめる。当時は「姦通罪」という法律があって、

エリートの有島武郎は、スキャンダルに弱く、追い詰められた。

はじめての鎌倉での一夜から、わずか一ヶ月で、かれらは心中自殺を選んだのである。

有島は遺書に「歓喜して死を迎える」と書き残すが、

秋子は「あなたを独りぼっちにしてゆくのが、可哀想でたまりません」と複雑な女心を残す。



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昭和の情死といえば、太宰治と大崎富栄。

昭和23年6月13日。玉川上水で入水心中。

あまりに有名な事件、なにもいうことはないのですが、太宰は知っていても、

大崎富栄さんの顔を知らない方のために、写真をUPします。

富栄さんは29歳だった。



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こちらは心中ではありませんが、愛人の後追い自殺をした松井須磨子さん。

劇作家島村抱月は、大正7年に新型インフルエンザである「スペイン風邪」に感染して

急死した。

抱月の愛人であった女優の松井須磨子は、抱月の臨終の席で、

「注射をして生き返らせなさい」と叫んだ。

かたわらには抱月の本妻がいて、

「遺体に触らないで」と叫んだ。


須磨子にとっては愛人であるまえに、抱月は近代演劇の師であった。

ふたりが興した芸術座の演劇『復活』の劇中歌「カチューシャの唄」は日本全国に

大流行したものである。

抱月が病死して2ヶ月後、大正8年1月に女優松井須磨子は芸術座の楽屋で縊死した。

抱月のいない世界に生きる意味を失った、一途の愛の女は、33歳だった。