短編「かれらの風貌」(11の4)

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届けをした木曜日の午後、動物保護センターから連絡があったらしい。

あらたに収容した犬があったので、その特徴を知らせてくれたのである。

妻は、うちのオッキーではなかったといった。

 金曜日の朝の九時前、私は出勤の支度をしていた。電話は朝霞保健所からだった。

 電話に出た妻の応対のようすから、きのうの午後に保健所で収容した犬の中に、

うちのオッキーに特徴が似たものがいるらしい。

「…はい。…はい、はい」

 妻の声が、暗雲がにわかに霽れていくように、弾んでいる。

「どこで保護されたんでしょうか。…まあ、そうですか。特徴から、うちの犬みたいです。

これから、そちらへうかがいます。場所はどのあたりになりますか…」

 洗面所の鏡にむかい、ヘアリキッドをつけた髪にブラシを使っていた私のところへ来て、妻が、

「ねえ、ねえ。オッキーが見つかったみたい」

「朝霞保健所にいるって。オッキーなのか」

「まちがいないみたい。きのうのお昼ごろ、平林寺の脇にある溝の中で鳴いていたのを、

通行人が発見して保健所に連絡してきたんだって。

脚が弱ってるから溝に落ちたら出られなかったんでしょ。

きっと、うちを出ていった夜に落ちて、発見されるまで溝の中にいたのよ」

「水はなかったのかな」

「それがさ、このところ雨が降ってないから、溝には水が無かったんだって。そうでなきゃ、

死んでたかも。よかったわ」

「平林寺とは、あの弱った脚で、ずいぶん遠くまで行ったよな。うちから何キロくらいあるかな」

「どうでしょう、四キロはあるんじゃない。それにまっすぐ歩いたわけじゃないでしょうから、

くねくね行ったら、五キロくらいはあるでしょ」

「方向感覚をなくしたとしても、どうして北の平林寺だったんだろう。

散歩にはいつも南の方へ行っているのに」

「オッキーはあっちの方で生まれたのかもね。遠い記憶の糸をたどって、

どんどん歩いていったんでしょ」

「そうか。あっちで生まれて、うろうろうちの方へ放浪してきて倅に拾われたのかもな」

 会社の私のもとへ、興奮した妻から電話があった。 
 
「オッキーだったのよ。よかったわ。保健所の事務所の裏側に犬を収容するオリがあるのよね。

わたしがまだ事務所で説明を聞いていて、姿もみせてないのに、裏で犬が鳴き始めたの。

保健所の人が、犬の嗅覚であなただと分かったんですよ、っていったけど、

その声でわたしにもオッキーだと分かったわ…」

 彼女は保健所員に従って通路を通り、収容オリの前に立った。

オッキーはオリの中をよろめきながら、鳴いた。

涙が出そうになるほど哀切な声だった。

それからフェンスごしに彼女の手をなめた。

 所員の話では、ここにつれてこられてからは、声も立てず、食べ物も一切口にせず、

じっと丸まって動こうともしなかったそうである。

 保健所に収容するのは三日間だけで、それを過ぎると県の保護センターに移送され、

七日間待って引き取り手が現れない場合には致死処分されるきまりである。

収容日数ごとにオリが設けられている。

 捕獲されてきた当座は鳴いたり吠えたりする犬も、七日目になると、哀れなくらいしずかになって、

つぎの日に自分を待っている運命が何なのか、本能として直覚するらしいということだ。

まるで死刑執行日を目前にした囚徒のようである。

「保健所からどうやって帰るんだ」

「いま保健所前の公園にいるの。もってきたおやつを食べさせたところ。お天気もいいから、

いまから公園を散歩して、タクシーで帰ります。ほんとによかったわ。

オッキーがあのままいなくなっていたら、わたし一生くやむことになった。

ああ、ほんとによかった」

 妻は私のように、仕方ない、と断念してしまうことがない。

断念することで、心に残る負担や疵を一日もはやく拭い去ろうとする私とは異なる気質の

持ちぬしである。

容易に断念しない分、いつまでも心を苦しめることになる。

 だから、私はナチを見捨ててしまい、オッキーは妻のもとに帰ってくる。

 
 
 オッキーはわが家に帰ってきてから、何事もなかったごとく朝夕散歩に行き、

旺盛な食欲をみせながら、おだやかに過ごしていた。

 妻には、どこかしら甘えるように、頭を下げてからだを押しつけるしぐさをするのは、

恐怖感とおびえの残滓がまだ消えていないせいだったろう。
 
 帰ってきて十日たった朝、犬舎の中で冷たくなっているオッキーを妻がみつけた。

「昨晩もまったく変わった様子がなかったのに、寿命だったのよね。家に戻ってきて、

安心したのよ、きっと」

 妻から知らされて息子が帰ってきた。

彼はオッキーを毛布を敷いたダンボール箱におさめ、首輪や好物のビーフジャーキーをいれてやり、

まわりを花で飾ってやった。

 死期をさとった犬が死に場所をさがして出て行ったという私の推論は正しくなかった。

 オッキーは自分を愛してくれた妻と息子のもとに戻って最期の時をむかえた。

その時をむかえるために、オッキーは戻ってきたとしか思えない。


                 ―(5)へつづく―