日独合作映画『新しき土』の原節子
『新しき土』は1936年に制作され、翌37年に日本とドイツにおいて、ほぼ同時公開された。
この映画について興味があったのは、作品の内容や、出来映えからではない。
(1)若く美しい原節子が主演しているからであり、
満映につながる歴史のふしぎなアヤを思わせられたからである。
映画は明らかに日本、ドイツ両国の国策映画である。
ちょっと年表をこしらえてみた。
まさに日本の激動期に彼らが『新しき土』に深くかかわる歴史的状況が見えて、興味深い。
1936年(昭和11年)
2月 『新しき土』ドイツ撮影隊来日する。おそらく、この時に山中貞雄監督が撮影中の映画 『河内山宗俊』の現場で、ドイツ人監督アーノルト・ファンクがはじめて原節子を見て、
女主人公として抜擢する。(当初は田中絹代が候補だった)
女主人公として抜擢する。(当初は田中絹代が候補だった)
2月26日 「2・26事件」勃発する。
8月1日 ベルリン・オリンピック開催さる。ヒトラーによる開会宣言。
11月 日独防共協定の締結。
1937年(昭和12年)
2月 映画『新しき土』が日本で公開さる。
3月10日 ドイツへ向けて、川喜多夫妻、原節子出発。
3月23日 同じ映画のドイツ版『サムライの娘』がドイツで公開。
3月26日 原節子、川喜多夫妻一行のベルリン到着。
4月 ドイツ各地を回り映画上映館で舞台挨拶をする。
1938年(昭和13年)
ベルリン・オリッピックの記録映画『民族の祭典』制作(リーフェンシュタール監督)
川喜多夫妻によって1940年輸入公開さる。
映画『新しき土』の「土」とは、日本にとっての新天地「満州国」のことである。
日本は「満州国」をドイツを窓口にして、欧州で認知を受けんがために、国策映画をつくったのである。
16歳である)と、若き原節子の写真とをUPする。
ストーリーを解説書から拝借する。
《ドイツ留学していた青年輝雄(小杉勇)は、恋人ゲルダ(ルート・エヴェラー)を伴って帰国する。輝雄には許婚の光子(原節子)がいた。光子や父・巌(早川雪洲)は彼を暖かく迎えるが、西洋文明に浸った輝雄は許婚を古い慣習として婚約を解消しようとする。ドイツ人のゲルダは彼を非難する。絶望した光子は、火山に身を投げようとする。
光子を助けようとして、いつか日本の農民の働く姿を見た輝男は「東洋主義」に回帰する。突然「日本は国土が狭く、人口が多過ぎる」というナレーションが流れると、彼は満州の広大な土地で耕耘機を運転しており、そばにはお嬢さまだった光子が野良着を着て、赤ん坊を抱いて笑っている》
光子を助けようとして、いつか日本の農民の働く姿を見た輝男は「東洋主義」に回帰する。突然「日本は国土が狭く、人口が多過ぎる」というナレーションが流れると、彼は満州の広大な土地で耕耘機を運転しており、そばにはお嬢さまだった光子が野良着を着て、赤ん坊を抱いて笑っている》
つまり、日本問題は国土拡張によって解決されるという、ご都合主義のプロパガンダ映画らしい。
ドイツ版の内容につては、きちんとした資料がないが、日本版よりは出来がよかったらしい。
それでも、日本観光絵葉書といったシーンがテンコモリだったようである。
日本版から推測すると(上記の解説書より引用)、
《富士山、桜、水郷、棚田、寺、仏像、書、能、都踊り、相撲、居酒屋、三味線流しといった、
ドイツ人監督が「日本的」と思うあらゆるものが無節操に登場する。光子が散歩に行って鹿にせんべいをやる裏庭は奈良のお寺のようであるし、その横にはなんと宮島の厳島神社があり…》
ドイツ人監督が「日本的」と思うあらゆるものが無節操に登場する。光子が散歩に行って鹿にせんべいをやる裏庭は奈良のお寺のようであるし、その横にはなんと宮島の厳島神社があり…》
なかったわけで、写真に写るすべてがもの珍しかったのだから、商業的にはそれが成功したのであろう。
ドイツ版では、原節子はすべてのセリフをドイツ語で話しているそうだから、きっと見物だったろう。