川喜多かしこと17歳の原節子

川喜多かしこ展」では興味深い写真やポスターをたくさん見ることができた。

その中に、とくに印象深かった2枚の写真がある。

それをUPしながら、その写真が物語る歴史の断面をすこし語ってみたい。

一枚目は、“『新しき土』の撮影でドイツを訪れた原節子と”と説明つきのもの。

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フラッシュの光が入って見苦しい写真になったが、お許し願います。

1937年、撮影場所はベルリンで、左が17歳(正確には16歳9ヶ月)の原節子、右が29歳の川喜多かしこ

中央の女性はドロテア・ヴィークといって、ドイツ映画『制服の処女』の主演女優である。

その映画は1932年に初めて渡欧した川喜多かしこが、自ら選んで日本へ輸入した記念的な
作品であり、ベルリンの地で主演女優ドロテア・ヴィークに原節子を引き合わせることができた
ことでは、格別の感慨があったことだろう。

しかし、フィルムセンターの展示説明に、わくわく亭は異を唱えることがある。

“『新しき土』の撮影でドイツを訪れた原節子”についてである。

彼女たちがベルリンへ到着したのは1937年3月26日である。

その3日まえの3月23日に、川喜多長政がプロデュースした日独合作映画『新しき土』(ドイツでは『サムライの娘』の題)はすでにドイツ全土で封切られており、その公開プロモーションのためのドイツ訪問だったのであり、「撮影」のためではなかった。

ドイツでは2600の映画館で上映され、観客の総数は600万人に登る大ヒット作となった。

日本では同年の2月に封切られ、これも日本で最初の国際合作映画ということで評判を呼んで、
爆発的な人気となっていた。

ドイツへ出発するという原節子一行を、東京駅で見送る群衆の様が新聞ニュースとなって、
鯨波・叫喚―悲鳴 見送り狂想曲 節ちゃん出発』とその様子を伝えている。

そのドイツへ旅行の一行は、原節子川喜多長政・かしこ夫妻、そして原の義兄で映画監督をしていた
熊谷久虎の4人だった。

ドイツでの過密なスケジュールをこなした後、つぎには『新しき土』を持ってアメリカに売り込むため
フランスから米国へと向かい、日本に帰国するまでには4ヶ月にも及ぶ長旅となった。

つぎのセピア色の、しかも完全にぼやけた写真(写真のぼやけの責任はわくわく亭にあります)がフランスからアメリカへ渡るときの4人の写真で、
展示説明には、

“フランスからアメリカへ向かうクイーン・メリー号の船上にて(1937)”とある。

人物は左から、川喜多長政原節子熊谷久虎川喜多かしこのみなさんである。

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日独合作映画『新しき土』とはどんな映画だったのか、それをつぎに書きます。