山中貞雄と原節子

川喜多夫妻の東和商事映画部(のちの東和映画)について書くつもりが、横道にそれてしまった。

前回16歳のニューフェース原節子を使って『河内山宗俊』を撮った山中貞雄監督のことに触れた。

戦前の日本映画ファンであれば天才と呼ばれた山中貞雄が戦地の野戦病院で28歳10ヶ月の
短い生涯を終えたことを惜しまぬ人はいないだろう。

現在山中貞雄が監督をした映画で、フィルムが残っているのはたった三本だけ。

二十本以上も作ったと言うのにどうしてなのか。当時日本の映画は消耗品として扱ったからです。

欧米のように映画を芸術とは考えらず、それを後世に残そうと言う考えもなかった。次から次へと映画を作り、上映された後は、次々と捨てられていった。

残った3本のフィルムは、「丹下左膳 百万両の壺」「河内山宗俊」「人情紙風船」である。

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河内山宗俊』は、1936年、日活で制作。
監督 山中貞雄
脚本 三村伸太郎
出演 河原崎長十郎 / 中村翫右衛門 / 市川扇升 / 原節子 / 山岸しづ江 / 市川莚司 / 衣笠淳子 / 清川荘司 / 高勢実乗 。

河内山宗俊河原崎長十郎)と浪人の金子市之丞(中村翫右衛門)にとってのアイドルは、甘酒売りの少女お浪(原節子)だった。

遊び人の弟がしでかした不始末のため、お浪が代わりに身売りされてゆくことになる。

義侠心にあふれる二人は身を挺して彼女を助けようとする。

JO(のち東宝)移籍前の原節子の日活時代の貴重な作品であるのみならず、フィルムが現存する彼女の出演作の中では最も古い作品である。

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山中貞雄が兄弟のように親しく交わった先輩映画監督がいる。小津安二郎である。

小津安二郎の日記には、山中貞雄との出会い(昭和8年、1933)にはじまり、急速に深まってゆく交

遊から、山中がついに京都から上京してPCL入社し『人情紙風船』を撮り、小津との交遊がさらに深ま

ろうかという時に、応召して中国戦線へ、そして翌年戦地での病死まで、その兄弟のような関係と小津の

深い悲嘆が,ありありと読み取れる。


京都、七本松通をあがっていくところに大雄寺があるそうだ。門のくぐり戸を抜けると左側の深い木立の

下に、大きな石碑が立っているという。

それが山中貞雄追悼碑である。山中監督を慕う映画関係者らが、1941年に建立した。

《その匠意のたくましさ、格段の美しさ、洵(まこと)に本邦芸能文化史上の亀鑑として朽ちざるべ

し…》の碑文は小津安二郎の手である。

碑文を、わくわく亭は東京国立近代美術館フィルムセンターの展示室で読んでいる。

そこに碑の拓本が展示されているからである。

こんど行って、全文を書写してこようと思っている。


山中貞雄が使ったまだニューフェースの頃の、若い16歳の原節子女優を、後年小津安二郎

すべての代表作に主演女優としてつかうことになるとは、二人の監督との因縁を感じてしまうのだ。


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伊丹万作が書いた山中貞雄追悼文は、名文として巷間伝わっている。

山中貞雄のなんとも豊かな人間性にあふれた風貌によせて、伊丹万作の哀惜の思いが述べられた文

である。一部を紹介しながら、山中貞雄の写真をUPする。

監督協会の成立とともに日本の監督の九十パーセントを私は新しい知己として得たし、

この中には随分偉い人も好きな人もあるがまだ山中ほど愛すべきはいず、山中ほどの好漢もいない。

私の見た山中の人間のよさや味はその作品とは何の関係もない。

私はあの春風駘蕩たる彼の貴重な顔を眺めながら神経質な彼の作品を思い出したことは一度もない。

 だいたい彼の顔はあまり評判のいいほうではない。私も最初は彼の顔などてんで問題にもしていなかつ

たのであるが、何度も会ううちあの平凡きわまる顔が実は無限の魅力を蔵していることに気がつきはじめ

た。またしても引合いに出すが、監督協会の他の人々の中にも随分いい顔や好きな顔がないではないが、

山中の顔のごとく長期の鑑賞に堪えうるものは極めて少ない。

ことによるとあの顔は山中の人よりも作品よりも上を行くものかもしれない。

近ごろ見飽きのしない顔ではあつた。

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