カントリーロード
この記事、一回でUPしようとしたら、5000文字オーバーはできないと注意サインが出た。
まさか5000文字をオーバーしてるって?
まさか5000文字をオーバーしてるって?
急遽、2分割して、いま書き直ししている。
雨が降っているせいか、いつもより客がすくない。禁煙席ゾーンはわれわれをいれても3組しかいない。
われわれ以外の2組はどちらも白人の外国人ファミリーである。
わが町も、外国人が増えた。
われわれ以外の2組はどちらも白人の外国人ファミリーである。
わが町も、外国人が増えた。
静かに食事をしていると、女房が「なにか話してよ」という。
「世の亭主族は女房と2人きりになると、とたんに無口になって、つまらない」と不平をいう。
「世の亭主族は女房と2人きりになると、とたんに無口になって、つまらない」と不平をいう。
それならば、いま外国人ファミリーを見て、ブログに書こうと閃いた話題があるので、それを女房の胃袋へ送り込むことにする。
「ジョン・デンバーのTake Me Home, Country Roads、カントリー・ロードは知ってるだろう。
いつだったかNHKで『世界名曲物語』という15分くらいの短い番組を見たのを思い出して、
それがカントリーロードの生まれる秘話だったんだ。それをブログで紹介したいと思いついたんだ」
僕は女房に番組内容をかいつまんで語った。あとで分かったことだが番組は2000年に放送されたもので、僕が見たのは8年前だったのか、それともその後の再放送だったのか不明。
いつだったかNHKで『世界名曲物語』という15分くらいの短い番組を見たのを思い出して、
それがカントリーロードの生まれる秘話だったんだ。それをブログで紹介したいと思いついたんだ」
僕は女房に番組内容をかいつまんで語った。あとで分かったことだが番組は2000年に放送されたもので、僕が見たのは8年前だったのか、それともその後の再放送だったのか不明。
とにかく自分でも驚くほど内容を、よく記憶していた。
「なぜそれをいま思い出したんです?」
「僕は40代のころ頻繁にアメリカへ行っていただろう。行くとよくアメリカの歌を唄ったんだ。当時、日本ではカラオケが流行しはじめていたが、アメリカでは、カラオケはないから、アカペラでね。招かれた家族パーティーとか、会社のパーティーとかでさ」
「アカペラで、いい度胸ね」
「英語で下手なスピーチするより、よっぽど受けたからだよ」
「カントリーロードを唄ったんですか?」
「いやそうじゃなくて。友達のチャーリーが日本に来たとき、彼を銀座のカラオケにつれていったら、
彼がはじめて歌を唄ったんだ。それがいい声で、うまいんで驚いた。それがカントリーロードで、店内の
客がリピートの歌詞のところで合唱になった」
彼がはじめて歌を唄ったんだ。それがいい声で、うまいんで驚いた。それがカントリーロードで、店内の
客がリピートの歌詞のところで合唱になった」
「チャーリーはうちにも来て、泊まったことあったでしょ」
「そう、かれは僕より10ヶ月歳下なもんで、僕を日本の兄さんと呼んでいた」
そんな昼食の後、家に帰って、何気なく女房が録画してあったアメリカの探偵ドラマを見ようとビデオを入れたところ、なんと、いきなり例のNHK番組が流れ始めたのだ。
録画したテープの上に探偵ドラマを録画していたわけで、ドラマが終了したために、偶然下に録画してあった番組が流れたものだった。
それにしても、めったにある偶然じゃない。
「奇蹟よ。わたしには、こんなことが時々起きるのよ」
奇蹟だと言っている女房殿には、ごめんを被って、話をつづけるとしよう。
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それでは、NHKの『世界名曲物語』のなかの「カントリーロード」篇を紹介します。
『世界名曲物語』「カントリー・ロード~アメリカ~」のタイトルが消えると、
アメリカ、ウエスト・ヴァージニアの山河をバックにしてジョンの歌声が流れはじめる。
ナレーターは、この曲が70年代に世界中で大ヒットしたことを紹介し、こう続ける。
アメリカ、ウエスト・ヴァージニアの山河をバックにしてジョンの歌声が流れはじめる。
「しかし、この歌の舞台となったウエスト・ヴァージニアに、当時のジョン・デンバーが縁もゆかりもなかったという事実は、あまり知られていません。
彼がこの曲に出会うまでには、どんな物語が秘められていたのでしょうか」
ここで、ジョンとともにこの歌の作者として名を連ねるビル・ダノフとタフィ・ナイバートが登場。
「カントリー・ロード」の元歌は、ビルがウエスト・ヴァージニアの山に住む友人の手紙からアイデアを得て、想像でつくったことが明かされる。
彼がこの曲に出会うまでには、どんな物語が秘められていたのでしょうか」
「カントリー・ロード」の元歌は、ビルがウエスト・ヴァージニアの山に住む友人の手紙からアイデアを得て、想像でつくったことが明かされる。
当時無名だったかれらは地方のライブハウスで自作の曲を唄っていた。あるとき、幸運が舞い込んできた。あるプロモーターの世話でジョン・デンバーの前座で歌う事になったのだ。
公演が終わったその日の夜、ビルが唄った曲に興味をもったジョンが、その曲の手直しをしようと
持ちかけた。
持ちかけた。
真夜中の地下室のアパートで曲は完成した。
ヒッピー風のカルチャーを帯びた歌詞を、情感あふれる望郷の歌詞に変えたのだった。
あくる日、ライブのアンコールでその歌を3人で歌うと喝采の嵐となった。
大学生たちが都会から田舎の家へ帰省するシーズンとも重なって、車の中で聞く曲として、
「カントリー・ロード」は一夜にして全米に広まった。
ところで、ある男性から「ブルーリッジ山脈やシャナンドア川はウエスト・ヴァージニアではない。、
ヴァージニア州にあるのを知らないのか」
とクレームをつけられたことが 、かれら3人の心にひっかかっていた。
大学生たちが都会から田舎の家へ帰省するシーズンとも重なって、車の中で聞く曲として、
「カントリー・ロード」は一夜にして全米に広まった。
ヴァージニア州にあるのを知らないのか」
とクレームをつけられたことが 、かれら3人の心にひっかかっていた。
一方曲の方は1971年3月に発売されると7月にはトップ10入りし、8月するという快進撃を続けました。
ある日、一人の女性のファンがこんな話をビルにした。
「あの曲に書かれた場所に主人と行ってきました。歌詞のとおり本当に天国のようでしたよ」
その場所とは、ヴァージニア州、メリーランド州、ウエスト・ヴァージニア州の3つの州境にあるハーパーズ・フェリーという小さな町だった。
そこはシャナンドア川が州境を流れ、ブルーリッジ山脈がよく見える場所だった。
想像で書いた歌詞の土地が、なんと実在していたのだった。
「生まれ育ったふるさとへの想いをメインテーマにした『カントリー・ロード』。それは、だれもが心に思いえがく、懐かしくいとおしい風景にまっすぐ通じていたのです」
ナレーターはこう結んで番組は終了した。
ナレーターはこう結んで番組は終了した。
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この曲はジョン・デンバーの大ヒットだったのだが、かれについて簡単に。
世界的な人気があった彼が、1997年、ガス欠が原因だといわれた自家用飛行機の事故で亡くなったとき、まだ54歳だった。
さて、上記した歌詞について(2)でUPします。