喪中のハガキ
12月になると、「喪中につき…」のハガキを受けとるようになる。
年々、その枚数が増えていくことには、寂しい思いをする。
友人の老親の喪中であればまだしも、友人の配偶者、あるいはしばらく音信をきかなかった友人
本人のために喪中ハガキが来ていたりすると、なんともいえぬ申し訳のない、かなしい思いがする。
郵便物の配達のない週末があける月曜日に、何枚かまとまって、喪中ハガキが来ることがある。
昨日の月曜日には3枚もらった。
なかの一枚が、木村欽一さんの奥様からの印刷されたハガキだった。
ながく闘病中だと承知していたが、6月におなくなりになっていたのか。知らなかった。
木村さんは「こびあん書房」という出版社の経営者で、地味ではあるがすぐれた英米文学の研究書を
こつこつと出版なさってきたお方だった。
木村さんの著書『お能の文化あれこれ』をひらいてみると、近年翻訳出版した英米文学のリストがつい
ている。その中には、中河与一の『天の夕顔』を英訳と仏訳の二カ国語に翻訳した本がある。
これなども、出版社にとっては、お金になりにくい、地味な出版活動の一例といえるだろう。
木村さんは、だれかがやらなきゃならないことを、だれもやりたがらないから、それをやろう、といっ
た出版人の良心をしっかり持っている教養人だった。
12年ほど以前、作家の船地慧さんの大著『たくあん』を買いたいとおもって、版元の木村さんを小日
向のご自宅に訪ねたのが知遇を得た最初である。『たくあん』は一冊が13,000円もする特別な本
で、一般の書店では手に入らなかったので、直接おたずねしたものだった。
船地さんから、あらかじめ木村さんには連絡があったそうで、僕は木村さんの歓待をうけた。
おおきな内庭のある日本式家屋で、いかにも謡曲、お能をなさる人の住居らしかった。
能の歴史研究者としては、日本で有数の人だった。ご自分でも国立能楽堂で実演なさったし、鎌倉では
薪能を演じられたりした。
UPした本の表紙写真は木村さんの舞い姿である。
その後、僕の書いた大田南畝や柳亭種彦の伝記小説の、たいせつな理解者だった。
しかし、ある病をわずらって、だんだんと文字が書けなくなりました、という弱々しい書体の短信が届
いてからは、闘病生活にはいられた。
――――――――――――――――――――――――――――
そして、奥様から届いた、ハガキ。
「喪中につき年末年始の……6月に夫欽一が永眠いたしました……」と。
木村欽一さん、長年のご厚誼ありがとうございました。
さようなら。
合掌。
年々、その枚数が増えていくことには、寂しい思いをする。
友人の老親の喪中であればまだしも、友人の配偶者、あるいはしばらく音信をきかなかった友人
本人のために喪中ハガキが来ていたりすると、なんともいえぬ申し訳のない、かなしい思いがする。
郵便物の配達のない週末があける月曜日に、何枚かまとまって、喪中ハガキが来ることがある。
昨日の月曜日には3枚もらった。
なかの一枚が、木村欽一さんの奥様からの印刷されたハガキだった。
ながく闘病中だと承知していたが、6月におなくなりになっていたのか。知らなかった。
木村さんは「こびあん書房」という出版社の経営者で、地味ではあるがすぐれた英米文学の研究書を
こつこつと出版なさってきたお方だった。
木村さんの著書『お能の文化あれこれ』をひらいてみると、近年翻訳出版した英米文学のリストがつい
ている。その中には、中河与一の『天の夕顔』を英訳と仏訳の二カ国語に翻訳した本がある。
これなども、出版社にとっては、お金になりにくい、地味な出版活動の一例といえるだろう。
木村さんは、だれかがやらなきゃならないことを、だれもやりたがらないから、それをやろう、といっ
た出版人の良心をしっかり持っている教養人だった。
12年ほど以前、作家の船地慧さんの大著『たくあん』を買いたいとおもって、版元の木村さんを小日
向のご自宅に訪ねたのが知遇を得た最初である。『たくあん』は一冊が13,000円もする特別な本
で、一般の書店では手に入らなかったので、直接おたずねしたものだった。
船地さんから、あらかじめ木村さんには連絡があったそうで、僕は木村さんの歓待をうけた。
おおきな内庭のある日本式家屋で、いかにも謡曲、お能をなさる人の住居らしかった。
能の歴史研究者としては、日本で有数の人だった。ご自分でも国立能楽堂で実演なさったし、鎌倉では
薪能を演じられたりした。
UPした本の表紙写真は木村さんの舞い姿である。
その後、僕の書いた大田南畝や柳亭種彦の伝記小説の、たいせつな理解者だった。
しかし、ある病をわずらって、だんだんと文字が書けなくなりました、という弱々しい書体の短信が届
いてからは、闘病生活にはいられた。
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そして、奥様から届いた、ハガキ。
「喪中につき年末年始の……6月に夫欽一が永眠いたしました……」と。
木村欽一さん、長年のご厚誼ありがとうございました。
さようなら。
合掌。